書評
『コールド・ファイア〈上〉』(文藝春秋)
クーンツの「最後に愛は(正義もだけど)勝つ」
わたしはいまイギリス、ニューマーケットでこれを書いている(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年)。ニューマーケットといえば競馬の聖地で、それ故、イヤでも馬券を買ったり、その馬券を「くそっ!」と呻き声をあげながら破いたりしなければならない。大変だ。さて、こちらではここ数日、No.1騎手フランキー・デットーリくんの引き起こした事件で大騒ぎである。九月二十八日の土曜日、アスコットという競馬場で、デットーリくんはその日の全レース七つに騎乗した上に、七つともすべて勝ってしまうという競馬史に残る快挙をなし遂げた。しかし、話題になったのはそのデットーリくんの偉業の方ではなく、それに関連したギャンブルの方。日本と違いイギリスではさまざまな馬券を売っている。その中には、その日の全レースの勝ち馬を的中させろという馬券もある。一つのレースだって当たらないのだ、こんなのが当たるわけがない。しかし、運命のこの日、デットーリくんの馬ばかり買っていた人が何人も現れ、大変なことになってしまったのである。
問題の馬券の倍率はざっと二万五千倍。日本でいうところの「万馬券」だって僅か百倍だ。とにかく、この天文学的な確率の馬券を当てたばかりか、ドカンと買って、一億円手に入れた人がいた。三十代の若い夫婦、イエイツ夫妻である。新聞によれば「当たる気がしてなりませんでした」と夫のダレンさん。「これで人生が変わります。夫を愛しています」と妻のアンナレイさん。
目も当てられない(?)ハッピイエンドだ。そんな、そんなうまい話があっていいのか!「あっていいとも!!」クーンツならそういうはずである。わたしはイギリス行きの飛行機の中でD・R・クーンツの『コールド・ファイア』(大久保寛訳、文春文庫)を読んでいたので、当然のことながら、そのような反応をしたのだった。
ところで、以前にも飛行機の中でクーンツを読んだ話を書いたのではないかと思う。飛行機の中で退屈を紛らすなら、ずっとジンかビールを飲んでいるか、ヴァージンアトランティック航空で各シートについているスーパーファミコンをやるか、クーンツを読むのがベストではないか。とにかく、わたしはそうしている。
『ストレンジャーズ』も『ウォッチャーズ』も『ミッドナイト』も、みんなわたしは機内で読んだ。その結果、もう読むべきクーンツの本がなくなって困っている。新作が出るまで海外へ行くのは止めようかと思ったぐらい。
では、なぜクーンツなのか。狭くて暗い機内で、寝るか食べるかばかりしているうちに、だんだん精神が武装を解除され、胎児に逆行してしまうからではないだろうか。わたしの場合、精神を裸にされると、どうも「正義の味方」状態になってしまうようなのである。
こういう時、クーンツを読むことはなにものにも代え難い喜びとなる。
そう、クーンツは「水戸黄門」なのだと思う。最後には絶対正義が勝つ。これがいい。他の作家の場合、時によっては正義が敗れることもある。飛行機内という悪条件の下で読んできて、それではショックが大きい。
しかし「正義が勝つ」だけでは、「単なる水戸黄門」といわれても仕方ない。そこでクーンツはもう一つ別の要素も付け加えた。「最後に愛は勝つ」だ。誰かの歌詞みたいだけど。もちろんこの場合も絶対「愛は勝つ」。男と女は結ばれてハッピイエンド。いま時、こんなことはディズニーだって恥ずかしくてやれない。クーンツはえらい!
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