書評
『本棚のスフィンクス―掟破りのミステリ・エッセイ』(論創社)
トリックを明かしてこそできる批評
かつてユニークな『推理小説事典』を出版してみようかと夢想したことがある。20冊限定。定価30万円。官憲に問われるものではなく、ただ名作のあらすじを紹介するだけ。ただしトリックや犯人の名を明らかにして……。
推理小説では批評に際しても、それを明かさないのが不文律であり(理由は明白だろう)そのため批評は隔靴掻痒、研究も発表しにくい。20人くらいは大枚をはたいて異色の事典を求める人がいるのではあるまいか。
閑話休題、本書『本棚のスフィンクス』は初めからこの禁を冒す、と断っている。『幻の女』『第三の男』『マルタの鷹』などなど著名な作品ばかりを扱っているから“ミステリ・ファンなら読んでいるはず”であり、こうしなければまともな批評はできない。一つの見識であり、本書の特徴であり、私も大賛成だ。
著者の視点は、名作のすばらしさやエピソードを多彩に語りながらも「しかし、この小説、論理的に少しおかしいんじゃない?」という指摘にまで踏み込んでいて、それが丹念で、おもしろい。私も似たような疑問を抱いたことがある。アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』なんて設定からして土台無理な話に、あえて挑戦しているのだから、論理的に鑑賞すればヘンテコなところがあって当然のこと。本書の指摘はいちいち頷(うなず)けるが、その一方で推理小説は、こういう問いかけにどう応えるべきものなのか、ジャンルの根源に関わる問題も伏在している。直井明は、このあたりも十分に承知のうえで、どこまでが許容されるかを探っている。考慮されてよいテーマだろう。
名作と映画の関係にも繁(しげ)く筆が伸びていて、たとえば『第三の男』では原作者のグレアム・グリーンはハッピーエンドを考え、最後のシーンでは“アンナがマーティンズの腕に手を通した”となるはずだったとか。
わかりにくいかもしれないが、これ以上は書かない。推理小説はめくばせの文学であり、詳細はあえて語らず、知った者同士がめくばせで頷きあう楽しみを否定できない。
朝日新聞 2008年06月29日
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