書評
『狼疾正伝--中島敦の文学と生涯』(河出書房新社)
存在への執着と疑いに発する文学
生誕100年、早世した中島敦についての入念な評伝である。作家研究として深い(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2009年 )。残された作品の多い作家ではない。ある時期まではそう高い評価を受けた作家ではなかった。しかし、そのユニークな短編小説「山月記」などが広く教科書に採択され、今も採用され続けていることによって“「国民的作家」の地位にまで上りつめた”と評伝者は綴っている。この作家の魅力はなんなのか。
タイトルにある“狼疾”は“激しい病気”のこと。また中島敦には“狼疾記”という私小説風な短編があって、タイトルがこれに由来していることは明白だが、ここではさらに深く説き明かして“〈狼疾〉とは、『孟子』の「其の一指を養い、その肩背を失いて知らざれば、すなわち狼疾の人と為さん」という文章から来たもので、指一本を惜しむあまり、肩や背までをも失ってしまう人の謂いである。中島敦は、これを根源的な「観念」の無根拠性に囚われるあまり、現実の世界や人間存在を見失ってしまう人間のことと解している。もちろん、それは誰にもまして、中島敦自身のことだろう”と評伝者は説く。
中島敦は自分という存在の不確かさに病的と言ってよいほどに激しい思案を重ね、そこから作品を発した作家であった。別言すれば……言語・文字・文学に託された人類の知性と文化、それに執着しながら、それを疑うことから中島敦の文学は始まっている。本書は作家の実人生の光と影をたどりながら、この視点から作品を的確に解き明かして淀みがない。
たとえば「山月記」は“詩業に没頭”したために尊大で憐れな野獣に化した男の物語であり、文学への傾倒と疑念が見え隠れしている。「文字禍」や「狐憑(きつねつき)」は言うに及ばず代表作の「李陵」の中にも繁栄の漢民族と一見卑俗に見える匈奴との複眼的な鋭い対比が見えるし「弟子」にもこの視点が十分にうかがえる。“書いたもの”より“書かれたにちがいない”ものへの深読みが光るこの作家について、適切な深読みをほどこした快い研究書である。
朝日新聞 2009年08月30日
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