書評
『波打ち際の蛍』(KADOKAWA)
心のあやを文章に乗せて丁寧に
紛れもない恋愛小説である。冒頭で男女の出会いが綴られ200ページを費やして恋のくさぐさと、揺れ動くヒロインの心理と生理が描かれている。小説家の立場で言えば、恋愛だけを書くのは、思いのほかむつかしい。とりわけ2人のなれそめは厄介だ。月並みは避けたいけれど……現実はたいていの出会いが月並みだ。加えて、それから少しずつ親しくなっていくくだりは……当人たちには切実でも、そのまま描けば、読者から「どうせ仲よくなるんだろ。早く抱き合え」と乱暴なことを言われかねない。
が、島本理生は第一歩から丁寧に描く。ゆっくりと進む。そのはがゆさが特徴だ。作品のストーリーは……若いヒロインは過去に辛い男性関係があって男性に触れられるのも厭、十分に繊細で、エキセントリックで、今はカウンセリングに通っている。そこで知り合ったのが蛍という青年。2人の心のもつれあいがおもしろい。特殊でありながら現実感がある。
とはいえ、この作品の一番の長所は作者の筆さばきだろう。複雑な心理のあやを文章のあやに乗せて巧みに綴っている。その文章をほんの少し行を詰め中略して引用すれば、
死に、たくはない。会いたい。
本当は蛍にだったらなにされたっていい。上にでも下にでもなれる。
顔を上げると、アーケードの鉄骨の隙間から夕暮れに浮かぶ月が見えた。私は口元に片手を添えた。たった一度、唇が触れただけで、もう私の世界は崩壊を始めてる。どろっと鈍った五感に浸るのは、どこか暗い心地よさだった。その薄皮を破って、そろそろ外へ出なきゃならないことは分かっていた。
丁寧で、粘りけがあって美しい。この筆致でもっとストーリー性の豊かな作品を、と思うのは望蜀(ぼうしょく)の嘆だろうか。
ゴシップ風の記憶を述べれば、04年、金原ひとみ、綿矢りさ、若い2人が芥川賞を受けて輝いたとき、もう一人の有力な20歳が島本理生だった。“三引く二は一”となった才媛の活躍を願いたい。
朝日新聞 2008年09月07日
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