後書き

『近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで―』(名古屋大学出版会)

  • 2021/03/24
近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで― / 岡本 拓司
近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで―
  • 著者:岡本 拓司
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(552ページ)
  • 発売日:2021-03-05
  • ISBN-10:4815810192
  • ISBN-13:978-4815810191
内容紹介:
科学の営みや社会との関係をめぐる言説は、維新から対米戦までの歴史の流れに呼応し、劇的に変転した。本書は、文明開化、教養主義の時代を経て、科学を標榜し革命を起こしたマルクス主義の衝撃と、それを契機に誕生した日本主義的科学論をふくむ多様な議論の展開を、初めて一望する。
わたしたちは、科学をどう考えてきたのか。科学論――科学の知識としての特質や社会との関わりを論じたもの――の歴史をたどると、そこに込められた先人たちの情熱が浮かび上がってくる。人類や国家の行く末を案じ、文字通り生命を賭して、科学について議論する人々が、かつての日本には存在した。岡本拓司著『近代日本の科学論』は、そうした個々の議論が「正しい」かどうかを特定の科学観に基づいて判定することなく、多様な科学論の成立と変転を描き出そうと試みる。社会と科学の関係を考えるために、歴史から何を学ぶことができるだろうか。以下、著者あとがきを特別公開する。

社会や国家にとって科学がもつ意味とは何か。科学論の歴史から考える

科学論に関する私の関心は、従来、主として、知識としての科学の性格や、そこで採用されている方法がどのように議論されているかという点にあった。必要に迫られて、あるとき、こうした問題が日本ではどのように検討されてきたかを確認してみなければならなくなったというのが、科学論の歴史、科学論史の検討を本格的に始めた際の事情である。適切な書籍がすでにあればそれを参照して済ませればよいが、手近には見当たらない。明治期から敗戦に至るまでの時期に、書籍としても雑誌記事としても科学論に関わるものが数多く発表されていたことはすでに知っていたので、それらを直接読んでみることにした。

ともかくいろいろ当たってみれば、科学が採用している方法に関する議論の系譜を辿る程度のことはできるであろうという当初の見込みは、結局は大きく外れることとなった。明治から昭和前期にかけて科学を論じた人々の関心は、社会、政治、国家に対して科学がもつ意味に向かうことが多く、わずかに現れる方法論に関する検討のみを集めて読むのでは、科学論を世に問うた人々の情熱を、歪んだ形で捉えることになってしまう。科学論に関する論文や書籍を発表したところで、学位が得られるわけでもなく、どこかの特別研究員に採用されるわけでもない時代に、彼らは、従来の科学の枠内に収まる研究ではなく、科学そのものを対象とした検討の深化が、人類の進むべき道を指し示すことや、建国の理念の毀損を防ぎながら科学を取り入れることに、直接貢献すると考えて、検討を続けていた。このような論者たちの姿を、一端であっても伝えようと試みた結果が本書である。とはいえ、対象とする時期に発表された、科学論を主題とする論文や書籍は数多く、伝えることができたのはまさにそれらの「一端」に過ぎない。取り上げられなかった話題も多く、取り上げた事項についても、当時の論文や書籍の検討を中心に論述を進めたため、関連する歴史研究に充分に言及することは叶わなかった。こうした欠を埋める機会はまた別途求めたいと考えている。

おおよその骨格のみではあれ、明治維新期から敗戦までの科学論の流れを辿ったのち、現在の状況を顧みると、かつては人類や国家の命運をも左右すると考えられた科学論は、21世紀にはそのような勢いを持つ領域ではなくなっていることに気づかされるであろう。私自身の関心も従来は方法論にあり、また現在、科学と社会や国家との関わりが議論される場合も、その範囲に、既存の政治体制の転覆や擁護、新たな政治体制の確立の可能性までもが含まれるとは思われない。わずか80年ほど前まで華々しく展開していた諸思潮に比べれば、現在の議論が勢いを欠くという事実は否みがたく、一片の寂寥感さえ覚える。もっとも、本書で扱えなかった20世紀後半の一時期には、科学論は依然、政治と直結したかたちで展開されており、これを歴史研究の中で取り上げれば、現代の感覚からそれほど隔たってはいない当事者たちの情熱を追体験することは可能である。科学論に込められた情熱は、歴史研究を介して感ずることもできる。

さらに、天皇制国家の下では、政治的に注目される課題に関わることには対価が求められた点にも注意する必要がある。武谷三男が自然弁証法に関する活動を理由に検挙されたように、政治に直結した科学論に携われば、官憲により拘束されるといった事態に至ることもあった。喘息の持病のある武谷の場合、生命を脅かされたとさえいえる。そうした覚悟もなく自由に科学を論ずることが可能な現在の状況には、感謝すべきなのであろう。

現在、科学論を思うままに展開することが可能であるのは、言論の自由が政治体制と政治理念によって保障されているためである。こうした体制を支える思想は科学や自然に直接的な根拠を求めておらず、またより広く、政治や倫理に関わる基本的理念については、科学の枠内での検討とは異なる領域での熟議が肝要であるとも理解されている。つまり、天賦人権論など根拠は薄弱であるが、漠然とした「天」であれば科学の力は及びにくく、仮に科学に基づく攻撃を受けても、政治的価値を科学に基づいてのみ否定することはできないと広く了解されていれば、深刻な問題は生じない。ただし、こうした了解は、いつまでも無前提に持続するとは限らない。明治維新の頃にはすでに、政治や倫理と科学が分離していることは常識であったが、ロシア革命後に天皇制国家がマルクス主義の脅威にさらされると、建国の理念と科学の間の齟齬が露呈し、前者の維持を理由に後者が攻撃されるという事態が生じた。科学に依拠する挑戦に、名目的にではあれ神に根拠を持つ国家体制が、対処を迫られたのである。同時期、ソ連においては、科学的と謳う政治体制による言論弾圧が生じていた。ソ連における事態と科学論との直接的な関連は薄いものの、科学によって正統性の保障される政治体制には、原理的には自然を支配する神と同様の専制に向かう可能性があるようにも思われる。

政治理念の検討にあたっては、可能であれば、科学との関わりについても留意しておいたほうが安全なのであろう。特定の実在観に依拠するものや、宗教的な理念に基礎を置きながら自然や科学への配慮の可能性を充分に保障しないものは、予期できない自然科学の進展の結果や、自然に関する科学の知見を採用して成立する政治思想の出現によって、思わぬ脆弱性を露わにしてしまう可能性がある。新たな統治形態や政治思想が採用される局面に至った時、もし選択の余地があるのであれば、特定の自然観に依拠する余地がなく、また、科学を根拠とする攻撃を受けにくいものを選ぶのが賢明であろう。先を見通すのはいつでも容易ではなく、具体的な状況の下では政治理念に関する選択の幅が充分にあるとも考えにくいが、世界の趨勢から離れた特殊なものを、その場の勢いで建国の理念に採用してしまうと、後の諸情勢の変化によっては、民族や国家の独自性の発揮という美点で補うことのできない、大きな困難が生ずる可能性がある。とはいえこれは科学論のみに関わってのことではないが。

[書き手]岡本拓司(東京大学大学院総合文化研究科教授)
近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで― / 岡本 拓司
近代日本の科学論―明治維新から敗戦まで―
  • 著者:岡本 拓司
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(552ページ)
  • 発売日:2021-03-05
  • ISBN-10:4815810192
  • ISBN-13:978-4815810191
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科学の営みや社会との関係をめぐる言説は、維新から対米戦までの歴史の流れに呼応し、劇的に変転した。本書は、文明開化、教養主義の時代を経て、科学を標榜し革命を起こしたマルクス主義の衝撃と、それを契機に誕生した日本主義的科学論をふくむ多様な議論の展開を、初めて一望する。

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