書評

『みずうみ』(河出書房新社)

  • 2023/03/12
みずうみ / いしい しんじ
みずうみ
  • 著者:いしい しんじ
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(320ページ)
  • 発売日:2010-11-05
  • ISBN-10:4309410499
  • ISBN-13:978-4309410494
内容紹介:
コポリ、コポリ……「みずうみ」の水は月に一度溢れ、そして語りだす、遠く離れた風景や出来事を。『麦ふみクーツェ』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』の三部作を超えて著者が辿り着いた傑作長篇。
つながってゆくつながってゆくつながってゆく。いしいしんじの二年ぶりの新作長篇『みずうみ』を読んでいる間、読み終えた今、わたしの中でいろんなものがつながってゆくようになってしまったのだけれど、そのことを怖がっているのか、懐かしがっているのか、嬉しがっているのか、悲しがっているのか、今はよくわからない。ただ、つながってゆく、その感覚だけが身の内から〈コポリ、コポリ〉と溢れだしているのです。

第一章で描かれる、みずうみのほとりで暮らすロハスな人々の物語は、これまでのいしいファンタジーの定石を踏んでいるといっていいでしょう。どの家にも一人存在する眠りつづける人が月に一度、みずうみの水が溢れだすと目覚め、口からコポリ、コポリと水を吐き出しながら見知らぬ世界の風景や出来事を語り始めます。そして、水がひいた後のみずうみの汀(みぎわ)には金時計や古いコイン、アコーディオン、かもしかの皮といったさまざまなものが流れつくのですが、その品々に魅せられた〈新しい商人〉の一行がやってきて――。語り手の〈ぼく〉が〈透明な湖面を指先でなぞるように、からだの内側を流れるひたひたの水に、見えない字を書きつづっ〉た、この不思議だけれど安心いしい印の物語は、しかし、〈やがてどことも知れない青い水底に、長い長い時間をかけて〉異質な語り口の第二章へと漂着していくんです。

主人公はタクシー運転手の男。ときどき口の中から石や破片や、機械の部品が出てくるばかりか、月に一度、体の中に水が満ち、そうなると自分ではどうしようもなくて、娼婦の力を借りペニスから大量の水を放出するしかありません。仕事以外で男が日課にしているのは、存在が定かではない妹に向けて、新聞や雑誌で気になった記事を書き写して送ること。さまざまな事件や過去の出来事と、自分の身の回りで起きる現在の出来事との奇妙なシンクロニシティを直感する男の日々を描いたこの第二章は、これまでいしいさんがとってきた穏やかなおとぎ話調の語り口とは異なる、抑制のきいた声で綴られています。

そして、作者本人を思わせる松本在住の作家・慎二と身重の妻・園子が経験するつらい出来事と、その友人夫妻がニューヨークやメキシコ、キューバで体験する神秘的な出来事が綴られた、これまた従来のいしいさんの作風とは異なる私小説風の第三章に至って、一見何の関係もなさそうな三つの物語が、眠りつづける人の口から溢れだす水によってつながってゆくのです。第一章に出てきた白い河馬のジューイや、石や、眠りつづける人を隠す帳や、語り手の〈ぼく〉や、虹のように輝く鯉が、第二章と第三章の登場人物らとつながってゆく。そして、紀元前五世紀にアイスキュロスが「ペルサイ」で描いたサラミスの海戦が、千百八十五年に幼い安徳帝が祖母と入水した壇ノ浦の合戦が、アンジェリーナ・ジョリーの出産が、アテーナイが、松本が、マンハッタンが、ラ・アバナが、カンクンの地底湖が、園子の死産した男児が、生まれたばかりの新生児が……、この小説の中に出てくるすべてのエピソードと人名と地名がつながっていき、記憶と時間の羊水ともいうべきみずうみの水は、眠りつづける人の口を通して、わたしの四ヶ月前に死んでしまった猫や失ってしまった大切な人たちや新聞で読んだばかりの事件をも、それらとつなげてしまうのです。

「なんで、つながってゆくんだ」と訊かれても、わかりません。わからないのにつながってゆく。それが、この小説を読んだわたしの体験としか云いようがないのです。
みずうみ / いしい しんじ
みずうみ
  • 著者:いしい しんじ
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(320ページ)
  • 発売日:2010-11-05
  • ISBN-10:4309410499
  • ISBN-13:978-4309410494
内容紹介:
コポリ、コポリ……「みずうみ」の水は月に一度溢れ、そして語りだす、遠く離れた風景や出来事を。『麦ふみクーツェ』『プラネタリウムのふたご』『ポーの話』の三部作を超えて著者が辿り着いた傑作長篇。

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