自著解説

『礼物軌式』(八木書店)

  • 2024/01/19
礼物軌式 /
礼物軌式
  • 編集:徳川林政史研究所、校訂:深井雅海・藤田英昭
  • 出版社:八木書店
  • 装丁:単行本(234ページ)
  • 発売日:2023-12-13
  • ISBN-10:4840652198
  • ISBN-13:978-4840652193
内容紹介:
尾張徳川家より、幕府への献上物(時献上)の仕立方について、文化13年(1816)時点の情報を図解入りでまとめた書である。
江戸時代、尾張徳川家が徳川将軍家への献上物の仕立て方についてまとめた「礼物軌式(れいもつきしき)」が、重要史料集成「史料纂集(しりょうさんしゅう)」に全図版を添えて翻刻収録されました。江戸期の贈答品の実態を示すこの好史料の見どころを、校訂者が徹底紹介します。

尾張家から将軍家への贈り物―『礼物軌式』とその周辺

大名家にとって重要な贈り物

江戸時代の大名は、御三家・家門・国主(国持大名)・外様・譜代の別なく、年始・八朔・重陽・歳暮・参府・帰国御礼時の献上のほかに、将軍に対して領内の産物を時々進献することを慣わしとしていた。大名の名鑑である『武鑑』では、それを「時献上」と称した。大名家以外にも、交代寄合や大名家臣の一部が特産品を進献する場合も見られ、尾張家の場合では、成瀬・竹腰の両家年寄のほか、石河家、渡辺家、山村家、千村家などがそれに該当した。

産物進献は、果物や海産物などの食品を主とするも、紙・炭・蠟燭などの日用品も少なくなかった。年間の進献回数や品目・数量の多寡は、およそ石高に対応していたようで、領知高が大きければ品物も多くなる傾向が見られた。品物は、当初は領内だけではなく、各地から調達されていたが、享保7年(1722)3月の触書によって、領内の産物に限られるようになったとされる(『御触書寛保集成』)。

領内の産物が安定して将軍に贈られるということは、単に品物を届けるだけではなく、領知が豊饒で領内支配が安定していることを将軍に報告することも意味したという見方もある。

こうした領内の産物は、各地から厳格な手続きのもとで運送され、品物にキズがつかないよう丁寧に梱包されるなどして江戸城内に届けられたが、尾張徳川家には、贈り物の調達方法や荷造りの仕方などをこと細かにまとめた『礼物軌式』という全5冊の書物が残されている。

本書は文化13年(1816)の成立で、尾張家の音信贈答儀礼に関わった御小納戸や御賄頭・寄物御賄人といった役人がまとめた書物である。「文化十三丙子年夏五月 御小納戸兼御賄頭 小倉六兵衛 奉」と記載があることから、当時の尾張家当主であった十代徳川斉朝への献上本として作成された書物と想定される。

本書の奥書には「献上物は、特に大切なことなので、調達方法や時々の指図を一書にまとめ、後世の参考となるようにした」と明記されている(148頁)。大名家にとって、将軍への贈り物がいかに大切なものであったか、それを明示して余りある一節である。

梱包材や紐の結び方も丁寧に記載

『礼物軌式』には、春11品、夏9品、秋16品、冬8品、その他18品の計62品が彩色絵入りで記載されている。

尾張国春日井郡落合村(現・愛知県清須市)産の宮重大根をはじめ、同国海東郡上條村(現・同上)の瓜、同国知多郡師崎村(現・愛知県知多郡南知多町)の魳(かます)や海鼠腸(このわた、なまこの内臓の塩辛)、美濃国(岐阜県)の産物である柿・鮎・うるか(鮎の塩辛)、信濃国木曽(長野県)産の氷餅などが尾張家からの贈り物としてよく知られている。

他の大名家にも、将軍家への贈り物をまとめた記録があってもおかしくはないが、本書のように品物を入れる箱の材や大きさ、包む紐の種類や長さ、紐の結び方などの作法を絵入りで詳細に記した仕様書は類本がなく、大変珍しいのではないか。

ほとんどの品物は、包装用材として一般的な椴(トドマツ)柾目の箱に収められて贈られたが、粕漬鯛・粕漬鮎・漬蕨・塩鮎を収める桶や樽は杉(スギ)柾目が用いられた。また白砂糖や干菓子は防湿効果に優れた桐(キリ)柾目が使われていた。正月3日の謡初の時に献上される御盃台は、台足木も含めて、檜(ヒノキ)材という豪華な作りであった。夏巻に記載された延命酒を入れる容器は、尾州瀬戸産の白徳利で、徳利の栓は杉材、徳利を入れる箱は桐柾目、箱の居台は面縁が檜柾目で足の部分が椴柾目といった具合に、用途に応じて材の種類が異なっていたことが本書から判明する。

将軍への贈り物がいかに大切であったか。尾張家が相当な気配りをしていた様子を本書からうかがうことができるのである。


『礼物軌式』使用上の注意点

それでは、一例として尾張家からの贈り物の一つであった柿について見てみよう。

『礼物軌式』には、春巻に枝柿、夏巻に大和柿と美濃柿、秋巻に甘干柿が記載され、年間を通じて柿が将軍に贈られていたことがわかる。この柿は、大和柿が江戸で買い上げられた以外は、すべて美濃国加茂郡蜂屋村(現・岐阜県美濃加茂市)の特産品で、加茂郡に置かれた太田代官所(太田陣屋)を介して調達されていた。

『礼物軌式』を使用する上で注意したいのは、春巻に枝柿が記載されているからといって、必ずしも春に枝柿が贈られていたわけではなかったということである。

本文を読むと、枝柿は「年中三度御献上之御品候間」(29頁)とあり、12月の新枝柿から翌年夏にかけて必要な数を取り調べて、進献日に間に合うように江戸に送られていたことがわかる。例えば、江戸中期の元禄8年(1695)には、正月20日、3月8日、4月20日、6月9日(土用入り)の年4回「月次御献上」として贈られ(『史料纂集 瑞龍公実録』八木書店、2022年)、枝柿「御献上」の季節が春に限られていなかったことがわかる。これは他の柿も同様である。大和柿は夏巻に記載されるが、江戸で購入するため9月上旬までに吟味するようにと本文にあるし、美濃柿も夏巻にあるが、贈るのは秋から冬である(元禄8年は10月8日)。秋巻に記載がある甘干柿は、「九月・十月之内三度御献上之御品」とあるので、これも秋から冬にかけて贈る品であった(元禄8年は10月20日のみ)。

こうしてみると、『礼物軌式』には贈る季節毎に品物を記載しているのではなく、調達準備の季節毎にまとめているようにも読める。ただし、春巻には、必ずしも産物進献ではない正月の献上品も多く記載されているので、個別に確認する必要もある。いずれにしても、四季毎に品物が記載されているとはいえ、必ずしもその季節に贈られていたわけではなかったことに注意されたい。

尾張家から贈られた多様な柿

それでは、柿の調達と梱包について見てみよう。先述のように、大和柿以外はすべて加茂郡蜂屋村の特産品で、いわゆる蜂屋柿であった。

蜂屋村は中世から柿の産地として有名で、江戸初期は幕領であったが、元和5年(1619)に尾張家の領知に組み込まれ、「御菓子場」として位置づけられた。「御菓子場」とは、将軍家の食物となる果物やその加工品を上納する村である。蜂屋村は、尾張家へ柿を上納して、同家を経由して将軍家に柿を献上する村となり、助郷などの諸役が免除されることもあった。寛文10年(1670)には、柿上納の職務を円滑にするため、庄屋の職務を「地方」と「柿方」とに区別し、それぞれ別個に庄屋を置いた。贈答用の柿を調整する庄屋は、「御柿庄屋」と呼ばれ、呼称の上でも明確に区別されていた。しかも、御柿庄屋には、それまで庄屋を務めていた者が就任しており、地方支配の庄屋よりも一段上の存在と見なされていた。柿の御用が増えていくと、御柿庄屋の下役として、「御柿見」を設けるとともに、蜂屋村内に尾張家へ上納する御用柿の事務所兼倉庫である「御柿屋」を設置して、柿上納の事務を処理していった。『礼物軌式』によれば、御柿庄屋は文化11年(1814)に苗字を認めることを許されたという(79頁)。

枝柿は撞木(枝とヘタのT字方の部分)が残っていることから、吊された干し柿であった。組子細工の箱に藁こもを敷いて、その上に一仕切りに枝柿五つ、一重で20個、五重合わせて100個の枝柿を納め、御用人の見分後に真田紐の諸わな結びで梱包された(28~30頁)。

美濃柿は生の甘柿のことである。この柿が江戸に到着すると、尾張家の戸山下屋敷で取れた紅葉した柿の葉で一個ずつ包んで、くぐ芝という植物の蔓で十文字に結んで箱に納めていった。そして、御用人の見分後に蓋を閉めている。本書には、柿の葉の包み方も絵入りで詳細に記載されている(73~76頁)。

甘干柿は、皮付きの生柿である皮柿を火力で干した柿のことである。皮柿が江戸へ送られた後、蜂屋村から柿剥きの百姓2人が江戸に来て、上屋敷の市谷屋敷に柿小屋を作り、この中で焚き火して甘干柿に加工していった。柿剥き百姓は、江戸に到着してから御用済まで尾張家から2人扶持が支給された。甘干柿ができると、美濃柿献上の際に使った戸山下屋敷の柿の葉を掻敷として組子細工に詰めていった。その後の行程は枝柿・美濃柿と同様である(77~84頁)。

大和柿をなぜわざわざ江戸で購入して贈っていたのかは定かではないが、あるいは産物が不出来で献上できない時は、他の品に変えて献上するようにとされた宝暦11年(1761)10月の触書と関係しているかもしれない(『御触書天明集成』)。蜂屋柿が十分に進献できなかった代わりに、江戸で大和柿を購入して贈った年があり、これが先例となり定着していった可能性もある。いずれにしろ、大和柿は9月までに準備して、柿は特に手入れすることなく、布巾できれいに拭くなどして箱に詰めていった(71~72頁)。

このように、尾張家からは蜂屋村から調達した干し柿(枝柿)や生柿(美濃柿)、江戸で購入した生柿(大和柿)や蜂屋村から江戸に送った皮柿を火であぶって加工した干し柿(甘干柿)といったように、さまざまな柿が将軍への贈り物となっていたのである。

ちなみに、本書中、枝柿や美濃柿の項には「御献上之御品」「御献上御用」「御献上御日限」などと、「御献上」と記載されるが(29・73・74頁)、絵で示された箱上には「進上」と明記されている(30・72・74・82頁など)。『史料纂集 源敬様御代御記録』第一(八木書店、2015年)にも、「公方様・若君様江御進上之美濃柿」(元和4年8月26日条、69頁)、「公義江御進上之枝柿」(元和5年2月26日条、75頁)などと記載されているので、本来的には「御進上」が使われていたのではないか。それが、時代が下って「御献上」の語も使われるようになったように見なせる。江戸初期には、「中宮(徳川和子)江枝柿弐百御差上之」(同上、寛永3年2月12日条、175頁)などと「御差上」が使われる場合もあった。


柿進献行為の実態

尾張家で丁重に梱包された柿は、江戸城へと運ばれた。

こうした贈り物が城内でどのように取り扱われたのかは、残念ながら『礼物軌式』から詳細を読み取ることはできない。あくまで尾張家内での調達と梱包の仕方が記述の中心である。

江戸城内へと運ばれる品々については、明治中期の『朝野新聞』に掲載された「徳川制度」中に、「時献上」と題した江戸後期における進献行為の事例が紹介されている。同時代の史料ではないが、当時の雰囲気がうかがえる興味深いエピソードなので、以下紹介してみよう。

進献物は、江戸城の奥の玄関口である平河門から城内へと運び込まれ、御進物方の役所に届けられると、進物番が取り次いで御納戸奉行へと渡されたという(この点に関しては、江戸城本丸御殿の中之口から檜之間へ運び入れたという記録や、大名家に出入りしている御城坊主を介して側衆が対応するといったものもある。年始・八朔・参勤御礼時の贈り物か、産物進献かによる違いもあろう。今後の検討課題の一つである)。ただし、年始・八朔・重陽・歳暮・祝儀・不祝儀といった諸家一同の進献日には、平河門の雑踏は言語に尽くしがたく、近くの一橋門内に控えて平河門が開くのを待っていた諸大名家の使者は、互いに先を争って早く済ませて帰ろうと、押し合いもみ合いの行為が繰り広げられていたというのである。したがって、釣り台に載せられた贈り品が汚されたりすることは珍しくなく、白木台の足が折られたり、品物を持っている足軽が転んで腕を折られることもあったという。そのため、進献品を届ける使者は、汚れても良い格好で平河門を入り、御進物所に出向く時は服を着替えたという。服装が汚れたり、裂けたりしないで無事に終えることはなかったというから驚きである。贈り物を届けるには、相当な覚悟が必要であった。しかし、服装が裂けるだけならまだしも、品物にキズがついたり、白木台が壊れでもしたら進物番に受け取ってもらえなかった。そうなっては大名家の面目は丸つぶれ、万が一のため贈り物の控えを持っていた大名家もあったとされる。

御三家の進献行為も、こうした危険と隣り合わせであったのだろうか。

否である。さすがに御三家の場合は、こうした喧噪とは全く無関係であった。平河門五つ(午前八時頃)の太鼓で門が開くと同時に、門番の者が「市ケ谷御館」と呼ぶ声に応じて、尾張家からの進献品が静かに門を入れば、次ぎに赤坂御館「這入られましょう」と呼び、紀伊家の家臣が入る。その後、小石川御館「這入られましょう」と呼び水戸家が通行した後、徳川家門が一列で入った。つまり、御三家以下徳川一門の使者たちは、静かに悠然と第一番に贈り物を届けることができたのである。それが終わると、国主(国持大名)以下の家臣がわれ先へと上記の行動を繰り広げたのであった。贈り物を届ける行為にも、大名の類別による違いがあったのは大変興味深い。

ただ、こうした行為は、あくまでも諸家一同の進献日にあたる年始・八朔などでの場合であったと思われる。四季毎のいわゆる産物進献の際は、必ずしも大名家が一斉に贈り物を届けたわけではなかったであろうし、混雑状況については同時代史料による確認も必要であろう。そもそも年間を通じて、将軍家にはどれほどの贈り物があったのか。こうした基本的な実証研究が全くなされていないのである。

もっとも、産物進献の場合でも、御三家の使者は悠然と品物を届けられたであろうことは想像に難くない。

それでは、江戸城内へと運び込まれた品々を、将軍はどのように取り扱ったのであろうか。「徳川制度」中の「時献上」には、何とも身も蓋もない文章が記載されている。

「諸家の献上品は、何種に拠らず精選して捧げたるものなるに、将軍の御前に出ずるまでにて、砂糖・鰹節の類は封のまま御膳所に下りて、空しく小役人の役得となり、絹・木綿・紙類などは御側勤めの者に封のまま下さるる習わしなれば、精選吟味・遠路注意を重ねたるも、何の効能もなかりしこと、今さら思えば気の毒なることどもなり。」

贈り物の行く末を知ったら、大名家は何と思ったことであろう。大名家で厳重・丁重に取り扱われ、使者が身の危険にさらされながらも何とか城内に運び込んだ贈り物であったが、将軍はそれを一見するだけで側近たちに下げ渡すこともあったというのである。あるいは、将軍の眼に触れなかった品もあったに違いない。恐らく大名の格式・類別とは関係なく、品物の種類に応じて選別されていったのであろう。この点、御三家も諸家の喧噪とは無関係に贈り物を届けられたとはいえ、その品が将軍の気に入るものであったとは限らなかった。

贈り物や進献行為にも、悲喜こもごもさまざまなドラマがあったことがわかる。


幕末、将軍への贈り物はどうなったか

幕末の文久2年(1862)に実施された文久改革は、参勤交代制の緩和や年中行事の差し止め、衣服改革など、幕藩関係の根幹に手を加える大改革であったが、諸家の進献物にとっても大きな画期となった。『続徳川実紀』第四篇の文久2年閏8月22日条によれば、年始・八朔・参勤・家督その他御礼事に関わる「献上物」はこれまで通りとするが、それ以外はすべて御免とある。つまり、四季毎の産物進献は、文久改革により廃止されたのである。ただし、「格別ニ御由緒」がある「献上物」については、伺い出るようにと明記されていた。そもそも「格別ニ御由緒」がある品とは具体的に何なのか。大名家によって区々であったろうが、本書はそうした手掛かりを得る上でも参考になるかも知れない。

本書は、歴史学における幕藩間の産物進献・作法の研究はもとより、地域史、食物史、民俗学、有職故実など、さまざまな分野と接続可能な史料集である。あるいは、日常生活におけるちょっとしたマナーとして、包紙の折り方や紐の結び方など、参照できる部分もあるかもしれない。幅広い活用を期待したい。

【参考文献】
大友一雄「近世の献上儀礼にみる幕藩関係と村役―時献上・尾張藩蜂屋柿を事例に―」(徳 川林政史研究所『研究紀要』第23号、1989年)
徳川美術館編集・発行『尾張の殿様物語』(2007年)
犬山城白帝文庫歴史文化館編『拝領と献上』(犬山城白帝文庫、2007年)
美濃加茂市民ミュージアム編集・発行『蜂屋柿 その歴史と人々展』(2008年)
加藤貴校注『徳川制度(中)』(岩波書店、2015年)
塚田沙也加「『武鑑』に見える「時献上」の情報」(國學院大學『大学院紀要―文学研究 科―』46輯、2015年)
越坂裕太「近世前期における献上と大名家格秩序」(『日本歴史』856号、2019年)
今井敬潤『ものと人間の文化史 柿』(法政大学出版局、2021年)
徳川林政史研究所・徳川美術館編『将軍と尾張徳川家―政と儀礼―』(徳川林政史研究所、2023年)

[書き手]
藤田 英昭(ふじた ひであき)
中央大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程を経て、現在、公益財団法人徳川黎明会徳川林政史研究所研究員。学習院女子大学・大東文化大学非常勤講師。

【主な著作】
『論集 大奥人物研究』(共編著、東京堂出版、2019年)
『論集 近世国家と幕府・藩』(共著、幕藩研究会編、岩田書院、2019年)
『江戸時代の森林と地域社会』(共著、徳川林政史研究所、2018年)
『明治維新史論集1 幕末維新の政治と人物』(共著、明治維新史学会編、有志舎、2016年)
『史料纂集 古記録編 源敬様御代御記録』第二~第四(共同校訂、八木書店、2016年~2019年)
「尾張徳川家『押付』養子に関する一考察」(徳川林政史研究所『研究紀要』56号、『金鯱叢書』49輯所収、2022年)
礼物軌式 /
礼物軌式
  • 編集:徳川林政史研究所、校訂:深井雅海・藤田英昭
  • 出版社:八木書店
  • 装丁:単行本(234ページ)
  • 発売日:2023-12-13
  • ISBN-10:4840652198
  • ISBN-13:978-4840652193
内容紹介:
尾張徳川家より、幕府への献上物(時献上)の仕立方について、文化13年(1816)時点の情報を図解入りでまとめた書である。

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ALL REVIEWS 2024年1月19日

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