3女性が奏でる流転作家の孤独
三人の、国籍の異なる女性たちが愛した男。それは一人の男だったが、それぞれに名前が違う。ローザが産み、夫の故郷に置いて去らなければならなかった男の子の名前はパトリシオ、生を受けたイオニア海の島の名前レフカダをミドルネームに与えられたパトリシオ・ラフカディオ・ハーン。
長じてアメリカに渡り、英語名パトリック・ハーンを名乗った男の最初の妻は、奴隷から自由の身になった黒人女性アリシアで、彼をパットと呼んだ。
アリシアの元から失踪し、アメリカの地からも離れて極東の日本に流れ着いた彼は、その地で出会ったセツの夫となり、小泉八雲と名乗ることになる。
小泉八雲といえば、日本の読者は、夏目漱石や森鷗外などと名前の並ぶ存在のように感じているが、もちろん、あとがきで翻訳者が指摘するように、彼は英語で書いた、英語文学の作家なのだった。
小説は三人の女性の語りによって、私たちが知らないラフカディオ・ハーンを浮かび上がらせる。
彼女たちの生きた時代は、洋の東西を問わず、女たちが生きやすい時代ではなかったが、驚くほど父権的な家庭で育ったローザが言うように、「記憶は男女を問わずすべての人に与えられたもの」「その術(すべ)は男に教えてもらうまでもないし」、「奪うこともでき」ない。
ローザは、アイルランド人軍医であった夫の叔母の元に置いて来た幼い息子が、いつか読めるようにと自分の記憶を残す。そして、アリシアとセツはそれぞれに、愛した男の求めに応じて、記憶している物語を語るのだ。『怪談』などの再話文学は、妻セツの話を書き留めたものだという逸話は、よく知られているが、シンシナティでパットは、アリシアの話をおもしろそうに聞き、書き取る。
パットはアリシアに「自分が生まれた島は世界地図から消えてしまった」と言い、彼女の語る米南部のプランテーションの思い出を、懐かしそうに聞く。父に疎まれ、母を失い、係累に縁のなかった彼が、行く先々で書き留めた物語は、彼の中で一種「故郷」であったろうかと思わせ、流転の作家の孤独に胸が締めつけられる。
本書で印象的なのは、名前、言葉そのもの以外に、食べ物の記述だ。ローザが語る、玉ねぎと牛肉の煮物。アリシアが拵(こしら)えたクリスマスのローストビーフ。セツが得意だったのはビフテキに青豌豆(えんどう)のバター和えとにんじんを添えた「日曜日の御馳走(サンデー・ロースト)」。ハーンは牛肉が好きだったらしい。直接的な個人の記憶である食べ物が、小説に馥郁(ふくいく)としたイメージを与えている。
小説中では黒衣のような存在の、ハーンの伝記作家エリザベス・ビスランドは果たして四人目の女性だったのか。ハーンが寿命に妨げられずにアメリカでの職を受けていたら、小泉家のその後はどうなっていたのか。巧緻な筆が描き出す、繊細すぎて時に酷薄な故郷喪失者の横顔に、ふと不穏な想像もよぎる。けれど、ヴェネチア旧家の血筋を誇るもヨーロッパでは差別的な扱いを受けるカシマチ家の令嬢・ローザの物語が、幕府の瓦解で落魄(らくはく)した侍の娘・小泉セツの物語と時空を超えて交錯し、ハーンがセツを「ママさん」と呼んで愛した理由の一端が、窺えたような気もしたのだった。