英語帝国と物質主義競争社会への抵抗
本書は翻訳の研究書ではない。翻訳を通した世界文学論であり、英語作品から見た世界の文学的眺望図でもある。しかしそれは頂からの見おろす視線ではなく、翻訳という装置を用いて英語一強主義に対抗する、そんな戦略を携えた小説が紹介される。「生まれつき翻訳」とは、村上春樹やボラーニョなども扱う分厚い序章をまとめれば、一つに、予め翻訳されることを見越して書かれたもの。もう一つ、書かれて流通する過程や成立基盤にすでに翻訳が組み込まれているもの。作品の生産、流通、受容の全ての点で関わる広義の「自己翻訳」と言い換えられるだろう。
第一章「距離を置いた精読」ではクッツェー『イエスの幼子時代』三部作が論じられる。本作は原作より先に他言語の翻訳が出版されており、スペイン語で書かれた「ふり」をしている。これにより作者は英語の誇る覇権を内側から揺さぶり、オリジナルと二次創作の位置を転換させる。
こうした翻訳偽装は同作家の『サマータイム』にもある。「距離を置いた精読」の概念がよく伝わるのは、共同体の成立は親近性に依るものではなく、ケア行為を正当化するのは他者の苦しみに応える責任感だと読み解くくだりだ。close reading at a distanceとは「遠い者同士が近づく」道の一つなのだろう。
つづく第二章では、主にカズオ・イシグロをとりあげ、「翻訳された書物がいかに新しい集団を形成するか」を探究する。彼の作品群が「生まれつき翻訳」なのは、他言語への翻訳を考慮して執筆され、厳密には「第二言語」での創作であり、翻訳文に見える文章をあえて書く点が指摘される。『わたしを離さないで』に見られるように、イシグロ作品には、クローン、コピー、非独自性などのモチーフが通底する。これらはすべて翻訳に内在する性質である。「唯一性を…人間の生を定義づける性質と扱うことは…倫理にもとる」と概説するくだりは要注目だ。私たちは唯一の正しさに拘る。「本場」の英語を敬う一方、第二言語話者のそれを紛い物のように見る面がないか。『日の名残り』の執事が歴史の別解釈を提示(つまり翻訳)することでベンヤミンの「翻訳における死後の生」の境地に達するという分析に唸(うな)った。
日本語版特別寄稿「知らずに書く」も厚い論考だ。かつての第二言語作家はその支配言語をマスターし、乗り越え、作り替えることを目指した。しかし同章で論じられるベンガル系インド人のジュンパ・ラヒリ、日独二言語で書く多和田葉子、イシグロは「積極的な不知」を選んでいると言う。ラヒリは第二言語の英語から第三言語の(習得不完全な)イタリア語での執筆に移っており、さらにこれを英訳させている。なぜアプロキシメーション(近似値・模造)を重ねるような手段をとるのかと言えば、不知でいることを「反人種差別的コスモポリタニズムの前向きな戦略」として作用させているのだと著者は説く。これはある種、英語帝国とその物質主義競争社会への抵抗ではないか。ゼロ年代によく読まれたある書には、英語覇権の半永続性と弱小言語の滅びるときが予告されていた。しかし英語世界はその表層的な独り勝ちの下で、すでに多極的な内破と更新を繰り返しているようだ。