書評
『ジョージ・オーウェル『一九八四年』を読む』(水声社)
「古典 × ディストピア」の今日性
ディストピア小説『一九八四年』は、なぜ再注目されているのか? 『ジョージ・オーウェル「一九八四年」を読む』は、編者の秦邦生の言葉を借りれば、「古典とディストピアの交錯点」で同作を読み直す論集である。田園と動植物、ポピュリズム、家父長制、アダプテーション、日本での受容、<ポスト・トゥルース>など多様で今日的な切り口で論じている。古典は無数の解釈と環境・時代的な要因により、「不可避の増幅や歪曲を受ける」と秦は言う。『一九八四年』にしても冷戦時代には、作者が意図しない反共宣伝に利用され、世界の分断をむしろ助長させる方向に働いた。渡辺愛子の論文「改竄される『一九八四年』」にも詳しいが、古典の読者はそうした「複雑な倍音」(秦論文)に耳を澄ましたい。
本論集の特徴の一つは、『一九八四年』を現在のディストピア小説の型にはめず、その闇が浮き彫りにする豊かなユートピア像の再現にも目を向けることである。
「ジョージ・オーウェル」(西あゆみ訳)という一文が収録されているМ・アトウッドも、『一九八四年』にはひと条(すじ)の希望を見出していた。同小説の巻末には、未来の視点で分析され「過去形」で書かれた独裁国家の研究論文が附録されているからだ。つまり、この国がどこかで亡びたと解釈できる――この洞察はピンチョンも提示しているが、アトウッドはそれを自作の『侍女の物語』に応用し、末尾に未来の学会報告を加えた。
小川公代の「『一九八四年』における愛と情動」は、この小説の結末に対してアトウッドがglimmersという語を使ったことに細心の注意を払う。この「微光」に注目したことが、論集全体の基調の一つをなしたのではないか。
更に小川はA・ニーグレンによる「聖書的な他己愛(アガペー)」と「ギリシャ哲学的な自己愛(エロス)」の二分法を参照し、オーウェルはその混合愛「カリタス」を不純なものと捉えず、二つの愛の間で揺れ動く人間を肯定的に描いたと指摘する。こうした不断さもオーウェルが求めた「人間らしさ(ディーセンシー)」(アトウッド論文)ではないか。そう考えると、国家愛以外が禁じられた偏狭なナショナリズムに欠けているのは、境界を越えて「俯瞰する目」だと、レイモンド・ウィリアムズの概念が引かれるのも一層納得がいく。
加藤めぐみの論文では、『一九八四年』と、それを換骨奪胎したアトウッドの『侍女の物語』と続編の『誓願』の関係を読み解き、物語がどのように「上書き(パランプセスト)」されたかをフェミニズムの観点からも浮き彫りにする。
最終節では、この三作の言葉の記録装置を使ったメタフィクション性、自己言及性に焦点を当て、人々の連帯が成立しない『一九八四年』と、女性間の紐帯(ちゅうたい)が築かれるアトウッド作品を対比していく。ちなみに、加藤論文を先に読むと、難しいリオタールの論文(郷原佳以訳・解題)の理解が少し助けられた。後者は体制が押しつけてくる生気のない人工語に対する「エクリチュール」の抵抗と同小説を捉え、注釈を施す。
各稿が独自の論点と鋭い切れ味をもちながら、論者が関心を深く共有し連繋しているのが感じられた。目の覚めるような論集である。
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