ときには映画の光を浴びて
映画はとにかく光なのだ。電気の強烈な光源から発せられた光(と影)を放射線のように浴びて、頭のいかれてしまった少年少女を最も大量に産みだしたのは、たぶん昭和三十年代から四十年代前半にかけての頃だった。まさに僕もその一人。高校半ばに家出までして松竹蒲田の門を敲(たた)いて追い返された、はるかな夢のようなできごとについては既にこの欄でスケッチしたことがある。そこで問題は、現在の僕にとって映画はやはり熱狂の対象であるか? しかり。僕の小説には映画がよく登場する。具体的なフェリーニや小津やジョン・フォードの作品がプロットの重要な要素になることもあれば、映画の一シーンから想を起こしたエピソードや描写もある。僕は小説を通して映画を夢見ているのである。
『ときにはハリウッドの陽を浴びて』は、一九三〇年代から五十年代にかけてハリウッドの映画製作にかかわった小説家群像を生き生きと愛惜こめて綴った一級のドキュメントだ。登場する作家は名にし負うF・S・フィッツジェラルド、フォークナー、ナサニエル・ウェスト、オルダス・ハックスリー、ジェイムズ・エイジー。
しかし、彼らは三顧の礼をもって迎えられたのではない。なにしろ彼らの小説は売れなかった。フィッツジェラルドもフォークナーも三千部と売れたことのない三文文士(ハック)だった。みんな食うためにハリウッドにやってきた。あの「三文オペラ」のブレヒトまでもはるばるドイツからやってきたという。
毎朝、パンをかせぎに
市場へ行くと買われるのは虚偽
売り手にまじって
ならぶ私は
希望に満ちて (ブレヒト「ハリウッド」)
彼ら台本作家たちは、ワーナー映画のジャック・ワーナーに「半人前のろくでなし」とがなりたてられ、撮影所の隅の荒れはてた、ウサギ小屋と呼ばれた部屋に押しこめられ、ケージ飼いのニワトリのようにストーリーと台詞(せりふ)を産みつづけさせられた。映画がサイレントからトーキーになって、台詞の書ける人間が急いで必要になり、プロデューサーたちがあたりを見回せば、ハックたちがうじゃうじゃいたわけで、例えば南部方言の台詞の書ける男ということで、『サンクチュアリ』を発表したばかりのフォークナーは週給五百ドルで連れてこられた。「これは今まで見たことのないほどの大金です。ミシシッピでもこんなに多くの金はありますまい」と得意になるほどだった。さもありなん。名作『サンクチュアリ』も『響きと怒り』も二千冊も売れなかった。
彼は一九三二年から五十五年まで、時々嫌になってミシシッピ州オックスフォードに逃げ帰ることはあっても、ほぼ二十二年間をどっぷりハリウッドに漬かって暮らし、「ハリウッドで最も速く脚本の書ける男」といわれ、酒を浴びるように飲み、いつも金に困っていた。
『偉大なギャツビー』のフィッツジェラルドはたくさんの台本を書いたが、字幕に彼の名前が出たのはたった一度だった。
僕は映画好きの三文文士(ハック)、偉大なる作家たちとこの一点で共通する。一作ごと、二十万、三十万部と売れる作家は、いつかあの世で、彼らと出会っていやみのひとつもいわれることを覚悟せねばならぬ。
ところで、映画「バートン・フィンク」は必見ですぞ! ハリウッドのフォークナー、フィッツジェラルドらしき怪しき人物が登場する。
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