ディーとケリーの絡みのなかに存在した「この世ならぬひとつの光」
占星術師ジョン・ディーと霊媒エドワード・ケリーが挑んだ天使召還儀式を読み解く
エリザベス女王の占星術師として知られたジョン・ディーは、数学、天文学、光学、地理学、航海学などの研究で名を馳せた16世紀英国の碩学である。だがその後半生は汚名と疑惑にまみれたものだった。ディーは1581年よりエドワード・ケリーという若者をスクライアー(霊媒的存在)として使い、精霊との交信を試みたのだ。ケリーは水晶玉の中にあらわれた「天使」から膨大なメッセージを受け取り、それは『精霊日誌』としてまとめられた。「天使」の姿を見たのはケリーだけで、ディー自身はほとんど何も見ていない。したがって、多くの人がディーは詐欺師ケリーに騙され、迷妄に落ちたと見なしたのである。だが、それは本当にそうだったのだろうか?『神の聖なる天使たち』の著者である横山茂雄は、かつて『何かが空を飛んでいる』(現在は『定本 何かが空を飛んでいる』国書刊行会)で、現実と妄想のあわいを飛ぶUFOについて語っている。映画についてということなら、脚本家・監督の高橋洋との対談集『映画の生体解剖』(洋泉社刊)が、映画の外の超越的なるものが映画に侵入する瞬間について論じて孤高の存在である。また別の名ではJ・G・バラードの『残虐行為展覧会』(工作舎)の翻訳も手がけている。横山茂雄が興味を向けるのは、いわば、ひとつの光である。この世とあの世のはざまから目もくらむ光が差しこみ、見た人間の脳を灼きつくす。空飛ぶ円盤というのはそんな「何か」である。それを完全な物理的実体、宇宙船の乗り物だととらえてしまうのも、完全なる幻覚、心理的錯誤だと片付けるのもまちがいだ。どちらの理解も、必ず何かを取り過ごしてしまうことだろう。その光は映画にも差しこみ、画面から観客に向かって降り注ぐ。ときに観客は恍惚に差し招かれるだろう。
あるいはケリーとディーもその光を目撃したのかもしれない。
横山はディーの天使召喚儀式について書かれた書物を丹念に読み解き、欄外の手書きの書き込みまでをも精査して、ディーとケリーの召喚儀式で何が起きたのかを解明する。
1582年3月10日、ケリーの前には天使ウリエルがあらわれ、召喚についての知識を授ける。それから8年のあいだ、ケリーとディーは水晶玉を通じて天使のメッセージを受け取っていく。それは驚くべき量と質を兼ね備えたものとなっていく。メッセージは図形に文字を配した印章として与えられた。次々に与えられていく図像が複雑性を増し、ついに1583年3月、それは究極の知識、失われた書物にまでたどりついた。『エノクの書』である。『エノクの書』は四十九マス平方の方陣が描かれ、その中に文字が書き入れられた四十八葉からなる本である。その文字は神からエデンの園でアダムに与えられた始原の言葉、バベルの塔が倒壊して人々が言葉をなくす前に知っていた聖なる言葉なのである。一見するとまるで意味不明な記号の羅列をディーは書き取っていく。
本の完成までにはそれはもう膨大な手間がかかっている。ケリーは一度ならず大いなる仕事に怯み、自分の役回りを返上しようとする。果ては交信している相手を天使ならぬ邪霊ではないかと疑いさえするのだ。それはまちがいなく学識ある年長者を騙してひと旗揚げようとする詐欺師の態度ではない。むしろ、自分でも理解できない大いなるものに我知らず巻き込まれてしまった者の戸惑いのように見えるのだ。
巨大な『エノクの書』は(同じく天使から与えられた)解読法により祈祷の言葉を引き出すことができる。だが、それは長文の暗号のごく一部にしかすぎない。ディーにも、ケリーにもそのすべては解読できないままだった。大いなる暗号は今もなお当時のままその巨大な姿をさらしている。それは本当に天使の言葉なのか?それをディーの言うがままに信じられる人はまずいないだろう。だが同時に、それが単なる無意味な言葉の羅列に過ぎないと思うのも途方もなくナイーブな人だけである。そこには何かがあった。それはあるいは、この世ならぬ光なのかもしれない。ディーとケリーの絡みあった関係の中に「何か」が存在している。抑制された筆致で描きだす横山もまた『エノクの書』のまがまがしい光に魅せられてしまった人間なのだ。