農業におけるSDGs
前作『誰も農業を知らない』は、農業界のみならず、ビジネスパーソンにもよく読まれました。巷にあふれる大規模農業は無農薬農業、あるいは六次産業化といった農業論がどれだけピントの外れたものになっているかを、どっさり書きました。当然、反論は予想しておりました。中でも農薬は危険で、無農薬農業こそ安全な農業だと思い込んでいる人たちの神経を逆なでするだろうと身構えて出版日を迎えました。
マスコミで大きく採り上げられる農業論に違和感を持っている人は、農業関係者にも、農業と無縁の仕事をしている人にも多かったのでしょう。巷の農業論は何かおかしい……そんな、読者の持っていた農業論への疑問を全部とは言いませんが、相当に解消できたようで、著者冥利に尽きる本でした。
本著は、その第2弾です。メインテーマはSDGsになります。農業のSDGsといえば、農水省が2021年5月に「みどりの食糧システム戦略」を発表し、2050年までのロードマップを発表しています。
このロードマップを横目で見ながら、おそらく多くの人が関心を持っておられるであろう、食料安全保障、温室効果ガス削減、有機農業、そして農家の持続可能性について書いていきます。
SDGs(持続可能な開発目標)は、賛否が分かれるテーマです。SDGsは近年「気候変動」と言われることも増えてきた「地球温暖化」問題がメインテーマとして挙げられることが多いのですが、実際のSDGsは地球温暖化だけでなく、自然保護や貧困の撲滅など多くの分野で世界を良くしていこうとする運動です。
2024年現在、世界のSDGs界隈は、とても面白い局面に来ています。これまでは、いわゆる出羽守と呼ばれる人たちが「ヨーロッパでは」「ドイツでは」などと言って日本の温暖化対策の遅れを非難していたりしていましたが、そのヨーロッパで温暖化対策が次々と見直しを迫られています。
もともとヨーロッパの温暖化対策は、多くの日本人から見て疑問の多いものでした。ドイツが原発ゼロを目指し、いわゆる自然エネルギーの発電を目指すのはいいのですが、電気が足りなくなると原発大国のフランスから電気を購入します。ほぼ全ての電力を水力発電で賄うノルウェーが温室効果ガスを出す石油を輸出して外貨を稼いでいます。農業分野も、政府が農家に無理難題を押し付けすぎたため、いくつかの国で農家が反乱を起こしました。
日本がすすめようとしている温暖化対策が最も現実的で効果も見込める……火力発電所をなくすのではなく、アンモニア発電施設に転用するとか、太陽光発電が効率的に行える国で水素を作ってもらい日本が輸入するなど、ヨーロッパよりもはるかに足が地に着いたエネルギー政策がすすめられています。
日本の手堅いやり方が理解されつつある現在、農業分野の温暖化対策も日本が世界を先導する可能性は十分にあると考えられます。
農業から日本の諸問題を解決する
そんなことを考えつつ農業分野のSDGsについて書いていくうちに気がついたことがあります。SDGsを推進することには、日本の懸案を解決していくことにも繋がります。本書で提案している目標のひとつに食料価格を上げることがあります。なぜ食料価格を上げるのかというと、食糧価格の上昇は日本人の賃金を確実に上げることになるからです。
なぜ日本の賃金が上がらないのか諸説ありますが、歴史を見渡せば、賃金が上がる理由はおおむねふたつに絞られます。ひとつは労働者が不足していることです。失業者が多く、労働者が余っている社会なら会社は質の良い労働者を安く雇うことができます。しかし労働者が不足していると、高い給料を出さないと来てくれなくなります。多くの場合、社員やパートに高い人件費を払いたくない会社は、安く雇える外国人を連れてきて人件費を抑えようとします。安く働いてくれる外国人で雇用が満たされる間は、我々の賃金は上がりません。
14世紀ヨーロッパでペスト(黒死病)が大流行した時には、ヨーロッパで3~4人に1人が命を落としました。その結果、農民や労働者も激減したため、彼らの待遇も賃金も上昇したのは歴史の教科書に書いてあります。労働力不足になったことで、ペスト流行前の3倍の賃金を出しても召使いを雇えないなどざらにあったようです。
もうひとつは、安い給料でも食べていける経済構造を作ることです。食糧が安いと、人は低賃金でもなんとか暮らしていけます。しかし食糧価格が高くなると低賃金では暮らしていけません。食費が上がれば、賃金は確実に上がるのです。
日本の一風堂で820円出せば食べられる豚骨ラーメンが、ニューヨーク店で20ドル(約3000円)ほどするそうですが、これくらい物価が上がると人件費も必然的に上がります。
実際のところ、日本の農産物の価格は全くと言っていいほど上がっておらず、主食のコメに至っては30年前の半額程度といった状態です。これで給料が上がるはずがありません。2024年の春闘では、大企業が大幅な賃上げを行いましたが、中小企業まで賃上げが普及するのかは疑問視されていました。そんな中、確実に中小企業の給料も上げるには、食糧価格を上げるのが最も有効なのです。
SDGsは、温暖化対策だけではありません。自然保護であったり貧困問題の解決であったり、人類と地球の持続可能性に関わること全てがテーマになり、とるべき対策も多種多様です。
書いていて、自分でも驚いたことがふたつあります。私はSDGsとは世の中をよくするために良いことをしようという、優等生的な考えだと思っていました。しかし、実際は武士道のようなものではないかと思うようになりました。実効性のある、良きことを行うには、我々も相応に「コスト」を支払わなければならない……ここでいうコストはお金を払うことだけを意味しているわけではありません。武士道のような、一種の美意識をもって生きることだと考えるようになったのです。それが第1の驚きです。
第2の驚きは、SDGsの推進は、食料安全保障にもつながることでした。化学肥料の使用を減らすには、どんな方法がとれるのか考えていくと、こうした問題にも踏み込んでいくことになったのです。しかも、日本が海上封鎖され、化学肥料も石油も入ってこない時の対策が、食料自給率を低いままにしておくことになるのですから、書いた本人である私ですら腰を抜かしていたりします。
お楽しみいただけると幸いです。
[書き手]有坪民雄
1964年兵庫県生まれ。香川大学経済学部卒業後、船井総合研究所を経て専業農家に。和牛肥育と稲作の傍ら農業関係の執筆も行う。専門知識を初心者にも分かりやすく書くことが評価され、出した本が農業関係の公務員試験の参考書や、食品関係企業の研修テキストに使われることもあった。
前著『誰も農業を知らない』は、「農業は大規模にすればいい」「有機農業がよい農業」「遺伝子組み換えは危険」といった通説を一刀両断し、農業関係者のみならず、幅広く読者に支持された。