人と人のつながりを生む意外
AIによる短歌生成の試みは十五、六年前にさかのぼる。日本にとどまらず海外でも短歌生成の言語モデルが作られている。本書で紹介されたのはその取り組みの一つだ。著者は勤務先の研究開発の一環として人工知能による短歌の制作に着手したが、外部の協力をえて出来上がったのが「短歌AI」という言語モデルである。そのひな形は二〇二〇年に誕生し、上の句の五七五を入力し、下の句の七七を作らせるものであった。
実際の生成を見ると、無機質な、説明文のようなものが多い。そこで、特定の歌人の協力をえて、その作品を学習データとした改良型をつくってみた。すると、短歌らしい生成をえることができた。その次に、お題とキーワードを入力し、AIが歌を生成するという試みも行われた。短歌らしさはともかく、この場合も指示されたお題と似た雰囲気の言葉が含まれた三十一文字が生成された。
短歌は実用文と違い、説明的になってはいけない。凡庸な歌にならないためには、捻(ひね)りのきいた表現、意外な形象の組み合わせが必要である。実務的な文章は論理性とわかりやすさが大切なのに対し、優れた短歌はイメージの飛躍が期待される。論理的な類推を得意とするAIにとって苦手な情報処理だが、条件の設定によってはできないわけでもない。
短歌AIの開発は技術の専門家だけで完結するものではない。優秀な作品を学習データとする場合は著作権の問題が生じるため、作者の許諾が必要だ。短歌AIで生成された作品を品定めするにも歌人の批評的な眼識はまた不可欠である。
人間の場合、心に響くことに出会ったり、何かに感動したりするとき、歌を詠みたいという衝動に駆られることがある。AIは機械だから、内面を持たない。誰かに伝えたい気持ちはないし、誰かとコミュニケーションしたいという思いもない。確率で言葉を選んでいるので、いくらいい歌を生成できても、本当の感情は伴っていない。
生成AIの出来栄えは深層学習で取得したデータの量によって大きく異なる。学習データが多いほど、「優れた」作品を生成する確率が高い。じっさい、俳句の場合、「AI一茶くん」(北海道大学調和系工学研究室)が生成した俳句は芭蕉の句と見分けがつかないほど高度なものになっている。短歌は学習データの制限などでやや事情が異なるが、理論上では到達できない目標ではない。
ただ、AIがどんなにいい歌を作っても、入力したデータの再構成(バリエーション)に過ぎない。これまで誰も作ったことのない短歌を作れるのはやはりAIではなく、人間だけである。将来は予測がつかないが、いまの時点では短歌のオリジナリティの創出においてAIはまだ人間を超えられない。
囲碁や将棋のAIと違って、短歌AIの開発は人間に「打ち勝つ」ことを目標としていない。連歌にAIを参加させたり、AIが作った作品を歌人が短歌愛好者の前で批評したりする試みはAI利用の広がりを示唆している。また、短歌作りにおいて、AIに言葉を選んでもらい、新たな発想が生まれるきっかけを作ることもできる。歌を詠む言語モデルの構築を通して、AIが人と人とのつながりを深めるという一面が見えてきたのは意外な発見である。