空港に病院なんてあるの?という人へ
医療系エッセイは数あれど、本書ほどニッチなものは珍しいのではないだろうか。本書の著者は〝空港医師〟。年間7千万人以上が利用する仁川国際空港内にある病院の院長だ。そもそも空港内に病院を作って需要はあるのだろうか? 調べてみると成田空港や羽田空港にも病院はあるようだけれど、一体どんな診療をしているのだろう? 本書を手に取った皆さんの中にも、同じような疑問を持たれた方がいると思う。そんな皆さんのために、本書で取り上げられている仁川国際空港医療センターの実態を少し紹介しよう。
仁川国際空港医療センターは、企業内診療所や健診センター、仁川空港が位置する永宗島の島民たちのかかりつけ医的な役割を果たしながら、普通の病院では滅多に出合わないレアケースの数々に対応している。例えば、密輸犯の体内に隠された証拠品を触診やレントゲン検査で見つけ出す(現在はボディスキャナーが導入され、医師による確認は不要になったという)とか、機内で亡くなった乗客の検案を行うといった警察医的な仕事もしているし、一刻を争う急患の命をつなぎ留め、設備のそろった総合病院へと引き継ぐ救急救命士のような役割も果たしている。場合によっては飛行中の機内から衛星電話で伝えられる病状だけを頼りに医療的な助言を行うといった、もはや曲芸ともいえる奇想天外な診療にも対応しているそうだ。空港病院で求められる診療範囲は、内科から整形外科、小児科、耳鼻咽喉科、産婦人科など実に幅広い。ある意味ではどこよりも医師力と精神力、さらには体力と人間力が試される現場といえるだろう。
そんな過酷な環境では日々の業務をこなすだけでも大変だろうに、著者はなぜそんな忙しい仕事の合間を縫って本書を出版するに至ったのか。きっかけは「はじめに」でも書かれているとおり、「ユ・クイズ ON THE BLOCK」への出演だった。同番組は〝韓国の明石家さんま〟とも称される国民的MCユ・ジェソクと、芸達者で日本語も得意なコメディアンのチョ・セホが司会を務めるトーク番組兼クイズ番組だ。〝ON THE BLOCK〟とあるように、もともとは道行く一般人に声をかけ、その人たちからさまざまなエピソードを引き出し、最後にクイズを出題して、正解者には賞金を渡すというスタイルで進行していた番組なのだが、コロナ禍を経たシーズン3以降は、話題の芸能人や著名人、各分野のスペシャリストなどをゲストに招いてトークとクイズを行う番組に変わっている。本書の著者シン・ホチョルが出演したのは、シーズン3の181話だ。
番組では、本書にも登場するエピソードが複数紹介されていたけれど、そこはやはりテレビ番組。時間的な制約も大きく、話のインパクトも重視されることから、取り上げられる内容には限りがあった。結果として振り返ってみると、著者が当初に思い描いていた「華やかな空港を支える、さまざまな分野の陰の功労者たちの日々の奮闘を世間に発信」したいという願いは、ほんの一部しかかなえられなかったことになる。そのことを少し残念に思っていた時だった。折よく本書の執筆依頼が著者のもとに舞い込んだ。
本書では、著者が空港病院で直面した悲しくもおかしいドタバタ劇や、思わず誰かに話したくなる驚きの診療のほか、遠い異国の自然災害や、半世紀も前に終結した戦争を起源とする乗客たちの命の危機、医療の死角地帯にいる外国人労働者の問題、小児科・産婦人科・救急科といった必須医療分野における医師不足の問題など、空港という世界の縮図を舞台に働く著者だからこそ語れる社会の影も描かれている。
一方で、地味ではあるけれど、あらゆる疾病や怪我の一次対応を一手に担う〝家庭医学科専門医〟ならではの視点で、万人向けにコンパクトにまとめられた、旅先のみならず日常生活の中でも使える医療的豆知識もちりばめられている。
けれど、やはり注目してもらいたいのは、空の安全を守るべく航空従事者専用の厳しい健康診断を課せられるパイロットや航空管制官にかかるプレッシャー、日常的に気圧の変化や放射線にさらされる客室乗務員たちの健康上のリスク、頭部や手などにいくつもの縫合痕を刻みながら黙々と業務に取り組む整備士や空港レストラン職員の苦労など、空港業務を支える陰の功労者たちの活躍だ。
そして、そうした人々を支えるべく、日々奮闘する著者をはじめとした仁川空港医療センターのスタッフたちの勇姿である。本書を読んだ皆さんが、次回どこかへ旅する際、世界中の空の安全と快適を守る人たちに思いを馳せてくれたらと願う。
[書き手]渡辺麻土香(韓日翻訳者)