書評
『KINDNESS 思いやりと優しさで世界を変える』(河出書房新社)
そういう首相が存在した、記憶
政治家の回顧録はどうしても自慢話が多くなり、不都合な事柄がカットされたり、真実を知っているのは私だと開き直ったりもするので、受け止める側が引き算しながら読む必要がある。だが、この回顧録はむしろ、自分自身で価値やキャリアを引き算してしまう悩みが随所で吐露されている。2017年、37歳でニュージーランド首相に選出され(当時最年少)、23年に首相を辞任したジャシンダ・アーダーンは高校時代に出会った先生から「インポスター症候群」との言葉を学んだ。社会から高い評価を得ているのに、自己評価が低く、運が良かっただけではないか、周囲を騙(だま)しているのではないかと考えてしまう状態を指す。とりわけ女性に多いとされる。
彼女は首相に就任してからも学校訪問を欠かさず、学生たちに「政治家って、どんな人だと思いますか?」と問いかけた。利己的。年寄り。信用できない。嘘(うそ)つき。ハゲ。そんな答えが並ぶ中、「思いやり」と答えた女性がいた。インポスター症候群に悩んだアーダーンは、彼女に「あなたが自分の欠点だと思っている性質のすべてが、やがてはあなたの強みになります」と語りかける。
思いやりと優しさ。そんな理想的な言葉で政治は変えられないと片付ける動きは常にあるが、それでも辛抱強く持ち続けた。「世界はとても大きく、人生は壊れやすい。それでも、たったひとりでも、世のなかに変化をもたらすことはできるのだ」、その純粋な想(おも)いを捨てなかった。話を聞き、悩み、ためらう。体調を崩しながらも政治家を続けている様子に対し、あんなに繊細な人に務まるのかと厳しく問う声もぶつけられる。その資格があるのかとずっと探られた。
首相に就任してすぐ、自身の妊娠を発表した。「私は首相兼ママになり」、パートナーは「“釣り好きのファーストマン”として専業主夫になります」とSNSに投稿すると、「#knitforjacinda(ジャシンダのために編もう)」とのハッシュタグが広がり、病院の新生児病棟にベビー用品の寄付を促す動きが始まった。そこには、政治家と有権者、相互の信頼の形が見えた。2019年にはクライストチャーチで銃乱射事件が発生、犯人はイスラム教徒のコミュニティを襲撃した。分断を煽(あお)る声が噴出する中、彼女は、この残虐な暴力に巻き込まれた多くの難民や移民たちについて、「彼らは、私たちです」と言い切った。
清濁併せ吞(の)むだとか、理想論だけではダメだとか、政治家の決まり文句というのか、濁った基本姿勢をなぜか私たち有権者まで共有させられている。そんなはずはないのだ。まっすぐ届けることはできる。そのために他者の声に耳を傾ける。理想に基づいた行動は可能なのだ。政治家も有権者も、真っ先に理想を捨ててしまうのはなぜなのか。
先述の通り、23年に彼女は首相を辞した。ある日、娘から「マミー、どうしてそんなにたくさん、おしごとしなくちゃいけないの?」と聞かれた。自分で自分に問い、自分で答えを出した。導き出した答えが利己的ではないかと問いを重ねた。国のトップは、自分の立場を保持するためではなく、人々に貢献するために働くべきだ。読んでほしい政治家が無限に思いついた。
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