書評
『死の谷’95』(講談社)
トヨザキ的評価軸:
「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
◎「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
妻の浮気を疑っている学者の兄が、肉体労働のアルバイトで食いついないでいる弟の次郎に尾行を頼む。盗聴も仕掛け、にわか探偵を気取る主人公を待っていたのは、しかし、意外な展開。美しい嫂がしていたのは浮気ではなく、行きずりの男に抱かれることだったのだ。しかも、嫂は深い霧の中海に身を投げてしまい――。と、ここまでが『行人』の筋立てを利用した第一部なんであります。
それから十年を経た第二部では、次郎は私立探偵になってます。で、こっからの展開がもろにチャンドラー。以前つきあいのあった幸子という女性の居場所を探してほしいと依頼してくる自衛隊員の大男・鹿群はチャンドラー作品における「大鹿マロイ」にあたり、マロイが服役していて八年間も女と連絡を取れなかったのと同様、鹿群も幸子と十年間も音信不通であり等々、呼応するエピソードが多いんですの。にもかかわらず、チャンドラー作品との親和性については触れない。なんで?
第一部における嫂の自殺、第二部で語られる殺人事件。この何の関係もなさそうな二つの出来事が、ある人物によって結びあわされる第三部で、読者は意外な、そして幸福な結末に遭遇することになります。新製品を開発して事業化段階までもっていくためには、途中資金が枯渇する“死の谷”を越えなくてはならないという経済理論があるそうです。探偵小説の枠組を借りて語られたこの小説に描かれているのは、人間が一度ゼロになることで死の谷を越え、再生する姿。つまり、大変読み心地のいい小説になってるんですの。にもかかわらず、わたしはこれまでに述べてきたような、フェアなんだかアンフェアなんだかわからない中途半端な語り口に、若干の違和感と不満を覚えないではいられないのです。
【この書評が収録されている書籍】
「金の斧(親を質に入れても買って読め)」
◎「銀の斧(図書館で借りられたら読めば―)」
「鉄の斧(ブックオフで100円で売っていても読むべからず)」
フェア? アンフェア? チャンドラーに触れないのはなぜ?
この小説の冒頭に、夏目漱石『行人』(新潮文庫など)のタイトルが挙げられております。これは「『行人』と似た物語が展開するけど、もちろんわざとであって、漱石の真似をしようというつもりはないので深読みしないでね」という、十九世紀文学によくあった“作者の介入”の手法を用いた但し書きでありましょうか。兄が妻の節操を試すよう弟に依頼するという筋立てと、兄・嫂・弟の名前の相似をもって、作者は漱石作品との親和性を作為的に示してみせながら、たしかにこの作品は結果的に『行人』のことはあまり気にしなくても読み進められる物語になってます。じゃあ、その程度しか似ていない『行人』に言及して、なぜチャンドラーの『さらば愛しき女よ』(早川書房)に触れないのか。妻の浮気を疑っている学者の兄が、肉体労働のアルバイトで食いついないでいる弟の次郎に尾行を頼む。盗聴も仕掛け、にわか探偵を気取る主人公を待っていたのは、しかし、意外な展開。美しい嫂がしていたのは浮気ではなく、行きずりの男に抱かれることだったのだ。しかも、嫂は深い霧の中海に身を投げてしまい――。と、ここまでが『行人』の筋立てを利用した第一部なんであります。
それから十年を経た第二部では、次郎は私立探偵になってます。で、こっからの展開がもろにチャンドラー。以前つきあいのあった幸子という女性の居場所を探してほしいと依頼してくる自衛隊員の大男・鹿群はチャンドラー作品における「大鹿マロイ」にあたり、マロイが服役していて八年間も女と連絡を取れなかったのと同様、鹿群も幸子と十年間も音信不通であり等々、呼応するエピソードが多いんですの。にもかかわらず、チャンドラー作品との親和性については触れない。なんで?
第一部における嫂の自殺、第二部で語られる殺人事件。この何の関係もなさそうな二つの出来事が、ある人物によって結びあわされる第三部で、読者は意外な、そして幸福な結末に遭遇することになります。新製品を開発して事業化段階までもっていくためには、途中資金が枯渇する“死の谷”を越えなくてはならないという経済理論があるそうです。探偵小説の枠組を借りて語られたこの小説に描かれているのは、人間が一度ゼロになることで死の谷を越え、再生する姿。つまり、大変読み心地のいい小説になってるんですの。にもかかわらず、わたしはこれまでに述べてきたような、フェアなんだかアンフェアなんだかわからない中途半端な語り口に、若干の違和感と不満を覚えないではいられないのです。
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