書評

『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』(作品社)

  • 2017/08/06
悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事 / エミール ハビービー
悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事
  • 著者:エミール ハビービー
  • 翻訳:山本 薫
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(237ページ)
  • ISBN-10:4861821088
  • ISBN-13:978-4861821080
どの社会の文学にも、その社会に固有でありながらしかも普遍的な広がりをもっている道化というものが存在している。スペインのドン・キホーテ。フランスのカンディード。中国の阿Q。本書の主人公であるサイードは、その伝でいくと、占領下のパレスチナを代表する道化であるといえるだろう。

書簡体の形をとったこの長編小説については、エドワード・サイードが『パレスチナとは何か』のなかで、「まさにパレスチナ的エクリチュールの最高傑作」と絶賛していたので、かねがねその存在は知っていた。数年前、東エルサレムの書店で英訳を発見しさっそく読み出したのだが、主人公と関係のない従兄の話が延々と続くわ、いきなり宇宙人は出てくるわですっかり当惑してしまった。語り手が精神病院に収容されていることまでは推測できたのだが、どうにも全体の筋道を辿ることができず、半分くらいで投げ出してしまった記憶がある。本書をもってようやく邦訳がなったことで再度挑戦してみた。いやはや夢野久作に匹敵するカーニヴァル文学であることが、よく理解できることになった。 著者のエミール・ハビービは1919年生まれ。27歳の時イスラエル国家が成立したが、難民として逃亡することを拒み、国内に留まったパレスチナ人である。ながらくイスラエル共産党の党員として国会議員を務め、その傍らで反語と逆説からなる晦渋な文学作品を発表してきた。どうも外側から推測するに、日本共産党に籍を置きながら道化と諷刺を説いた皮肉屋の花田清輝のような存在であったようだ。2006年はその逝去10周年にあたり、ベイルートで全集の刊行が開始され始めたと聞いた。

原題にある「ムタシャーイル」とは、悲観論と楽観論をあわせた造語である。カンディードが楽観論者であるなら、自分は楽観悲観の両方でさあと、語り手は自嘲的に語る。サイードという名前がそもそもアラビア語で「幸福な男」、日本語でいう幸男くらいの意味であるわけだから、すでに表題からして相当に捻りが利いているのだ。

1948年、イスラエル軍に追われたサイードは、父親と驢馬が身代わりとなったおかげで、かろうじて命拾いをする。彼は避難民たちに混じり、レバノン国境で脱出と密入国を繰り返す。やがてパレスチナ労働者同盟の元締めとなり、ヘブライ語を学ぶと、ユダヤ人国家のなかで二級市民の境遇に甘んじながら生き延びる。このあたりの物語がいかにもピカレスクロマンのように語られているのだが、はたしてどこまでを信じていいのやら、皆目見当がつかない。悲惨の連続のなかに爆笑があり、笑い終わった瞬間に読者は背筋が凍るまでに残酷な状況に直面してしまうのだ。やがてサイードは、虐殺された村のただ一人の生き残りである金髪の少女バーキヤと結婚する。バーキヤとは「留まった者」という意味である。サイードが彼女から、海辺の洞窟に隠された一家の「財宝」の話を聞いたあたりから、物語はさらに悲劇的な様相を帯びてくる。主人公は息子と妻をイスラエル兵士に殺害され、ついに狂気に陥ってしまうのだ。狂気という形式を借りなければ歴史の真実を描くことができない状況を、この長編は体現している。パレスチナ文学といえば生真面目な告発の文学ばかりという偏見があるが、本書はそうした偏見を覆す、幻想的な前衛文学として、おおいに読まれるべきであろう。ちなみにこの小説は、イスラエル国内のパレスチナ人俳優として国際的に活躍しているモハマッド・バクリの一人芝居『悲観楽観悲運のサイード』の原作でもある。バクリが2006年12月に、この芝居を東京と京都で上演して、好評であったことを、蛇足ながら付記しておきたい。

【この書評が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • 発売日:2007-09-00
  • ISBN-10:4166605925
  • ISBN-13:978-4166605927
内容紹介:
古典からサブカルチャーまで、今日の日本人にとってヴィヴィッドであるべき書物約155冊を紹介。「決して情報に還元されることのない思考」のすばらしさを読者に提案する。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事 / エミール ハビービー
悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事
  • 著者:エミール ハビービー
  • 翻訳:山本 薫
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(237ページ)
  • ISBN-10:4861821088
  • ISBN-13:978-4861821080

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初出メディア

週刊読書人

週刊読書人 2007年2月2日

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