蔵書の始末
×月×日日を追うごとに強迫観念となってくるのは、蔵書の始末である。図書館は引き取ってくれないし古本屋も買い渋ると予想されるからだ。
ラグナル・ヘルギ・オウラフソン『父の四千冊アイスランドのアーティストによる回想』(小林玲子訳、作品社二六〇〇円+税)は、世界一の本好きの国として知られるアイスランドで、作家・ビジュアルアーティスト・出版社経営者として知られる著者が八年前に他界した父の残した四〇〇〇冊の蔵書を前にして心に浮かぶよしなしごとを綴った書物随想である。
僕は今、父の書斎にいる。数か月のうちに、母はこの家を引き払う予定だ。(中略)僕と弟はこれら四千冊をここから出し、ふさわしい場所であろうとなかろうと、どこかに行き場を見つける任を負っている。
最初、機械的に本を処理しようと思うが、自身も父の出版社を手伝ったこともあるため、そうは行かなくなる。子供のころ、父の書斎から本を抜き出して読んだ記憶が蘇ってくるため、どれを処分し、どれを残すかという基準もわからなくなり、分類もできなくなるからだ。いっそ全部売り払おうかと考えるが古本屋もこんな状況だ。
古書の供給は毎年急速に増えるいっぽう、需要のカーブは反対側に弧を描いている。書物を蒐集した最後の世代、書物を(どんな本であれ!)捨てるくらいなら現金をごみ箱に捨てた世代は、もはや棺桶に片足を突っこんでいる。彼らの蔵書が古書店の棚を占拠している。かてて加えて古書店そのものも、一軒ずつ消えていっている。今、レイキャヴィークには二軒しか残っていない。
果たして、蔵書はうまく処分できたのだろうか?極めて「時宜にかなった一冊」である。