書評
『南方熊楠・萃点の思想―未来のパラダイム転換に向けて』(藤原書店)
南方熊楠(1867-1941)は、明治以降の日本において仏典から最先端の自然科学まで広大な知識を渉猟したばかりか、今日でいう環境保全運動のために権力にたいして闘うという、ずば抜けて巨きなスケールをもった知識人であった。70年代に平凡社が刊行した著作集によって、彼の全体像が朧気ながら浮かび上がるようになったことは、慶賀すべきことだ。
だが今日の熊楠研究は、さらにその先を進んでいる。もはや彼を従来のように博覧強記の伝説的人物として褒めそやすこともしなければ、構造主義の終焉を説く最新思想の先駆者として文化商品に仕立てあげることもしない。熊楠は世紀の変わり目にあって神話伝説を解釈するさいに、最初は異なった場所で同じ事象が同時に発生するという同時発生論を採っていた。しかしやがて当時の欧米の思潮に影響されて、ひとつの事象が次々と空間的に伝わってゆくという伝播論へと移っていった。しかし彼がそれでもこの二つの立場の間で、微妙に理論的揺らぎを見せていたことを、最新の研究者は実証している。ロンドン留学時代の以前から原語で密教に精通していたわけではなく、最初はヨーロッパの仏教研究の書物に接することから、学問的知の成立と布置を論じる認識論的思索へと進んだこと。
松居竜五を中心とする熊楠研究のニューウェイヴが、実際に熊楠の欧米での足跡を追い、原資料に当たることで、これまで曖昧に信じられてきた伝説を検証確認してゆくさまには、刮目すべきものがある。
鶴見和子は最初、水俣の公害反対運動の先駆者としての熊楠に、関心を抱いたという。彼女の最初の熊楠論が講談社から刊行されたのは、1978年のことであった。わたしはただちに一読し、そこに曼陀羅における「萃点」という言葉が記されているのに注目した。これは熊楠が盟友の土宜法竜に宛てた1903年の書簡に、最初に登場する語である。この言葉によって熊楠が伝えようとしたのは、風が吹けば桶屋が儲かるといった、原因と結果とが時間的に続いていく西洋の因果律とは違う論理、いうなればアジアの仏教においてこそ思考され、捻転されてきた論理学に拠るものである。鶴見和子はそう説明した。だがこの説明はあまりに簡潔すぎて、充分に展開されておらず、わたしを満足させなかった。もっともそれは、何よりも著者が痛感していた問題でもあったようだ。彼女はそれ以後、この「萃点」という概念に拘り、23年に及ぶ根気強い探求のすえに、ここに本書を上梓することになった。そこでは前述の松居とのコラボレーションが実現され、問題がさらに深く掘り下げられている。
鶴見の最初の本の意義は、これまで奇人の道楽による雑学の集積と考えられていた熊楠の言説を、内的一貫性をもった学問であると見抜いたことであった。この書物ではそれがより大きな文脈のなかで位置づけられている。20世紀初頭の科学哲学や理論物理学では、単純なる因果律や主観客観の二分法を越えて、世界を共時性の場として認識しようという立場が生じ、ある意味で思考の原理における転換が行なわれた。熊楠の知的活動は、それと時期を一にした事件として考えられることになった。またこの稀代の博物学者が、欧米の認識論の歴史のなかで、記号の無限連鎖を説いた哲学者パースと、人間の無意識と外界とが「意味ある偶然」を介して対応しあう現象を分析した心理学者ユングとの間に位置する、きわめて重要な存在であることが指摘されている。もう少し具体的に書いてみよう。
アリストテレス以来の西洋の形式論理学では、単純に原因があって結果が生じる。だが仏教の因縁という考えでは、ある因果が別の因果と偶然に接触することによって、いずれの結果とも違う、思いがけない結果を生むことが説かれている。世界のあり方はまさしく無数の因果の系列が重なりあい、衝突しあうようであって、系列がもっとも重なりあうところが萃点と呼ばれる。萃点は全体を統括する中心点などではない。それはつねに移動してゆくものであって、これを見据えるためには観察する主体も定位置から眺めていてはいけない。つねにみずからも運動し、もうひとつの萃点たらんとして認識しなければならない。熊楠の言葉を借りるならば「回々教国にてはイスラム教徒となり、インドにては梵教徒となり、チベットにてはチベット僧とならん」という態度こそが、認識をする者の道徳なのである。
著者は先にこの「萃点」なる語が大乗仏教の原典にあるのではないかと予想を立てたが、のちに実証的にそれを否定し、熊楠の造語であったと論じてゆく。この辺の真理解明のくだりが、わたしには格別にスリリングであった。歴史的実証と執拗な哲学的探求がみごとに結合して美しい成果をあげた書物であるといえる。
【この書評が収録されている書籍】
だが今日の熊楠研究は、さらにその先を進んでいる。もはや彼を従来のように博覧強記の伝説的人物として褒めそやすこともしなければ、構造主義の終焉を説く最新思想の先駆者として文化商品に仕立てあげることもしない。熊楠は世紀の変わり目にあって神話伝説を解釈するさいに、最初は異なった場所で同じ事象が同時に発生するという同時発生論を採っていた。しかしやがて当時の欧米の思潮に影響されて、ひとつの事象が次々と空間的に伝わってゆくという伝播論へと移っていった。しかし彼がそれでもこの二つの立場の間で、微妙に理論的揺らぎを見せていたことを、最新の研究者は実証している。ロンドン留学時代の以前から原語で密教に精通していたわけではなく、最初はヨーロッパの仏教研究の書物に接することから、学問的知の成立と布置を論じる認識論的思索へと進んだこと。
松居竜五を中心とする熊楠研究のニューウェイヴが、実際に熊楠の欧米での足跡を追い、原資料に当たることで、これまで曖昧に信じられてきた伝説を検証確認してゆくさまには、刮目すべきものがある。
鶴見和子は最初、水俣の公害反対運動の先駆者としての熊楠に、関心を抱いたという。彼女の最初の熊楠論が講談社から刊行されたのは、1978年のことであった。わたしはただちに一読し、そこに曼陀羅における「萃点」という言葉が記されているのに注目した。これは熊楠が盟友の土宜法竜に宛てた1903年の書簡に、最初に登場する語である。この言葉によって熊楠が伝えようとしたのは、風が吹けば桶屋が儲かるといった、原因と結果とが時間的に続いていく西洋の因果律とは違う論理、いうなればアジアの仏教においてこそ思考され、捻転されてきた論理学に拠るものである。鶴見和子はそう説明した。だがこの説明はあまりに簡潔すぎて、充分に展開されておらず、わたしを満足させなかった。もっともそれは、何よりも著者が痛感していた問題でもあったようだ。彼女はそれ以後、この「萃点」という概念に拘り、23年に及ぶ根気強い探求のすえに、ここに本書を上梓することになった。そこでは前述の松居とのコラボレーションが実現され、問題がさらに深く掘り下げられている。
鶴見の最初の本の意義は、これまで奇人の道楽による雑学の集積と考えられていた熊楠の言説を、内的一貫性をもった学問であると見抜いたことであった。この書物ではそれがより大きな文脈のなかで位置づけられている。20世紀初頭の科学哲学や理論物理学では、単純なる因果律や主観客観の二分法を越えて、世界を共時性の場として認識しようという立場が生じ、ある意味で思考の原理における転換が行なわれた。熊楠の知的活動は、それと時期を一にした事件として考えられることになった。またこの稀代の博物学者が、欧米の認識論の歴史のなかで、記号の無限連鎖を説いた哲学者パースと、人間の無意識と外界とが「意味ある偶然」を介して対応しあう現象を分析した心理学者ユングとの間に位置する、きわめて重要な存在であることが指摘されている。もう少し具体的に書いてみよう。
アリストテレス以来の西洋の形式論理学では、単純に原因があって結果が生じる。だが仏教の因縁という考えでは、ある因果が別の因果と偶然に接触することによって、いずれの結果とも違う、思いがけない結果を生むことが説かれている。世界のあり方はまさしく無数の因果の系列が重なりあい、衝突しあうようであって、系列がもっとも重なりあうところが萃点と呼ばれる。萃点は全体を統括する中心点などではない。それはつねに移動してゆくものであって、これを見据えるためには観察する主体も定位置から眺めていてはいけない。つねにみずからも運動し、もうひとつの萃点たらんとして認識しなければならない。熊楠の言葉を借りるならば「回々教国にてはイスラム教徒となり、インドにては梵教徒となり、チベットにてはチベット僧とならん」という態度こそが、認識をする者の道徳なのである。
著者は先にこの「萃点」なる語が大乗仏教の原典にあるのではないかと予想を立てたが、のちに実証的にそれを否定し、熊楠の造語であったと論じてゆく。この辺の真理解明のくだりが、わたしには格別にスリリングであった。歴史的実証と執拗な哲学的探求がみごとに結合して美しい成果をあげた書物であるといえる。
【この書評が収録されている書籍】
中央公論 2001年9月
雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。
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