書評
『現代思想としての西田幾多郎』(講談社)
哲学と文学の「未分以前」を考えていた
その昔、西田幾多郎の『善の研究』を岩波文庫版で買ってみたものの、読みとおせずに撤退を余儀なくされた読者も多いだろう。 “純粋経験 ”とか “主客合一 ”とか“絶対矛盾の自己同一 ”というのもあったかどうか、とにかくそういう哲学的言語障壁に障(さえ)ぎられ、内容が胸に落ちない。同じ言葉の領分なのに、文学にくらべ哲学はむずかしい。文学にはある、初心者でも取り付ける裾野が欠けていて、言葉がハナから崖のようにそびえてしまっている。その昔、撤退したものの、せめていかほどか西田哲学の意のあるところを味わってみたいと長らく思ってきた。で、この本を手にとったのだった。
導入がうまい。哲学の言葉を立てず、まず文学の言葉で誘ってくれる。文学は常識の延長だから、スムーズに誘いに乗ってゆける。
西田の人生は、家庭的な不幸と孤独の色の濃いものだったという。「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と自ら述べる。哲学は人生の悲哀から始まるものとは、まるで文学と同じではないか。西田は哲学的思索についで歌作を好んだ。たとえば、三高生だった長男の死に直面して、
「担架にて此(この)道行きしその日より帰らぬものとなりにし我子」
死のあと十日ほどして、
「かにかくに思ひし事の跡絶えてたゞ春の日ぞ親(したし)まれける」
この歌について著者の解説。
「続けざまの苦しい出来事のなかで、かぎりない悲哀のなかで、ふっと悲哀が超えられるという経験をしたのであろう。悲哀を忘れたのではない。何重もの哀しみが重なったところで、哀しみを包むものに出会ったのであろう。深い森のなかで、ふっと明るい開かれた場所に出ることがあるように」。どうも西田自身、歌を哲学と同じ性格のものと思っていたらしく、「短詩の形式によって人生を表現するということは、単に人生を短詩の形式によって表現するということではなく、人生にはただ、短詩の形式によってのみ摑(つか)みうる人生の意義というものがあることを意味するのである」と述懐している。
ここまでは誰でも常識の延長でついてこれる。そして、ここで著者は、読者を哲学に向かってほうり投げる。西田が短詩でしか表現できないものと述懐したものこそが、実は西田哲学のエッセンスなのだ、と。
ほうり投げられた読者は、もちろん私も、なんとか足を折らずに着地できそうな場所を本の中に見つけないといけない。“第五章西田の芸術論”なら大丈夫かもしれない。
芸術家についての伝えの中に、たとえばミケランジェロと運慶の似た話がある。何か表現してるわけではなくて、石や木の中に隠れている像を彫り出しているだけ。あるいは、世阿弥は「無心」こそが最高の段階であるといった。西田はこうした表現者の境地を問題にする。
「物我相忘(ぼう)じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみである。……芸術の神来の如きものは皆この境に達するのである」
こうした無我無心の境地の中で味わっている体験を西田は〈純粋体験〉と名づけ、これを自分の哲学の根本に据えた。
至高の芸術家でなくとも、誰もが純粋体験を味わっている。ふと訪れた美術館で、一枚の絵の前で足が止まり、画面に引き込まれ、自分の体や思考を忘れてしまっている時。土手から自転車に乗って落下し、落ちる先の田んぼの光景が目に焼きつく時。音楽も文学も、自分の存在と時間のたつのを忘れる時はたいていそうだ。
こう書いてくると、西田哲学の根本は分かりやすくて、なんだか有難みが薄れるような気もするが、本来の哲学というのは文学と同じように、誰でも取り付ける裾野を備えているにちがいない。日本の短詩は、純粋体験を表現するのにまことに適した形式なのである。
西田が、そういう純粋体験をテコとして崩そうとした相手は、ヨーロッパ哲学の根幹をなす二元論であった。主観と客観、意識と存在、神と人、意識と言語、自然と人間、内容と形式。一つの全体を二つに分けて、本質を記述する二元論には大きな欠落があると考え、二元論の直前にあるはずの本質に迫ろうとした。
こうした哲学の仕事をなぜ『善の研究』などという人生訓的な表題の本にまとめたかというと、西田は、西洋の哲学は「全く知識的研究にして、議論は精密であるが、人心の深きに着目するもの一もあるなし。パンや水の成分を分析し説明したるものあれども、パンや水の味をとくものなし」と見なし、別の哲学のあり方を目ざしたからだという。哲学と文学の「未分以前」を考えていたのだった。
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