あるときこれといって趣味のない、二人の退屈な初老男が偶然に知り合い、ともに学問への深い情熱をもっていることを知って悦ぶ。彼らはそれ以来、まるで兄弟であるかのように切磋琢磨して書物という書物に読みふけり、そこから得た知識をノートに引用したり、興奮して朗読しあったりする。彼らは歴史学に熱中し、それに飽きると地理学、さらに天文学、生物学、風俗史、また考古学ならぬ考現学と、次々と知の領域を渉猟しては次へ次へと移ってゆく。二人はあまつさえ宇宙の共通語を考案しようとさえする。……それで結果は? 結果は、何もなし。二人は少しも利口にならず、人格的にも向上しない。ただ振り出しに戻っただけ。すべては無為に終わり、老いだけ二人の上に残酷に覆いかぶさる。
19世紀フランスの小説家フロベールが最晩年に書いた『ブヴァールとペキュシェ』という長編小説である。いや、今かりそめに「長編」と呼んでみたが、はたしてこれが彼のそれまでの『ボヴァリー夫人』や『感情教育』といった作品と同じように小説といえるかどうか、わたしには自信がない。というのも半分以上の部分が、この二人の老人が引用したり読み上げる他人の書物、それもさまざまな分野の学問的著作の抜書きから構成されているからである。まったく人を食ったというか、人を馬鹿にした作品である。
だがわたしはいつからか、この小説が無性に親しげに感じられてきた。というのもわたしが映画史家として、また比較文学研究家としてもう30年にわたって続けている仕事と、この二人の作業とは、どこが違っているのかと考えるようになったからである。次々と他人の書物を読み、抜書きをし、そこから著作めいたものをでっち上げる。研究といえば厳粛な雰囲気がするが、要は雪かき作業に似た徒労の行為かもしれないのだ。フロベールは「ボヴァリー夫人はわたしだ」と有名な言葉を吐いたが、その顰に倣ってわたしもいうことにしよう。ブヴァールとペキュシェはわたしだと。
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