書評

『ヴェルサイユ宮殿に暮らす—優雅で悲惨な宮廷生活』(白水社)

  • 2017/08/18
ヴェルサイユ宮殿に暮らす—優雅で悲惨な宮廷生活 / ウィリアム・リッチー・ニュートン
ヴェルサイユ宮殿に暮らす—優雅で悲惨な宮廷生活
  • 著者:ウィリアム・リッチー・ニュートン
  • 翻訳:北浦 春香
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(243ページ)
  • 発売日:2010-06-23
  • ISBN:4560080720
内容紹介:
豪華絢爛な建物の内部は226の居住空間からなる巨大迷路。18世紀、ここには王を頂点に1000人以上がひしめきあって暮らしていた。雅びにみえる貴族たちの日常生活とは!?

ばらは窓からまかれる汚水で枯れた

太陽王ルイ十四世はヴェルサイユ宮殿の造営を決意したとき、フロンドの乱で敵対した王侯貴族も宮殿内に住み、王の秩序・位階に従うよう命じた。これが政権安定の最大要因として機能したのである。つまり、暴力では屈しなかった王侯貴族が「権力の劇場」としてのヴェルサイユ宮殿に住んで儀式に加わり、礼儀作法に汲々(きゅうきゅう)とするうち、王の栄光にひれ伏してしまったのである。ヴェルサイユ宮殿があったからこそブルボン王朝は五代続いたのだ。

ところが、王権の象徴だったこのヴェルサイユ宮殿、儀式や大宴会が行われていた表側こそ豪華絢爛(けんらん)であったが、裏側たるアメニティの部分では劣悪極まりない欠陥宮殿であった。極言すれば、およそ人の住めるようには設計されていなかったのである。

本書は、ヴェルサイユ宮殿の「下部構造」を宮内府建設部長や城館総督への報告書や苦情などの資料から総合的に明るみに出そうとする新しい試みである。

ヴェルサイユ宮殿は、住人千人以上、居室二百室以上というから、今日の大団地の規模だった。ところが、この大団地、集会室(いわゆる鏡の間や舞踏会が開かれる大広間)や自治会長(国王)夫妻の部屋などは巨大なのに、一般住民(多数の従者)の住居は極小で貧弱というアンバランスを抱えていた。居室は大共同棟の大部屋を粗末な仕切りで区切ったものにすぎず、住宅というよりも一昔前の学生寮に近かったからだ。しかも、住人たちが「四分の一(カルティエ)勤務」という季節毎(ごと)の勤務形態で激しく入れ替わったため、メンテナンスが行われず、傷みが激しかった。造営から百年たった大革命直前には経年劣化は手の施しようもないほどに進行し、窓は破れ、床も壁も歪(ゆが)んでいた。

しかし、ヴェルサイユの問題はじつは別のところにあった。それは、生活のための水回りや台所、暖房・採光・洗濯場などがほとんど整備されていなかったことである。

たとえば食事である。王侯・貴族たちは連日大御馳走(ごちそう)を満喫していたが、従者たちは自室に台所も竈(かまど)も与えられず、大食堂で食事するしかなかった。それも叶(かな)わぬ者は宮殿の外で惣菜(そうざい)を買ったり、外食を余儀なくされた。中には、違法を承知で台所と竈を居室や廊下に作る者も現れた。これがヴェルサイユの荒廃に力を貸すことになる。「火災に備え、台所はたいてい水の使いやすい一階につくられていた。結果として、『水道管』が手近にあった北棟のオペラの中庭と、王族棟の中庭の周りに台所が林立することになった」

もっとも、違法の台所だろうと、正しく使われていれば問題はなかったはずだが、住人たちには「自宅」という意識が薄かったから、生ゴミや排水の処理には気を配らなかった。その結果、生ゴミは中庭や廊下に捨てられ、排水があたりを水浸しにした。

しかしながら、何といってもヴェルサイユ宮殿の最大の欠陥は、糞尿(ふんにょう)の処理に無神経だった点だろう。貴族の部屋でさえ「衣装部屋」と婉曲(えんきょく)に呼ばれる片隅に「穴あき椅子」という簡易便器が置かれているだけで、水洗トイレなど存在していなかった。問題は穴あき椅子の中身をどうするかだが、「『母なる自然の汚物』を処分する場所はほとんどなかった。城館に住む者とその使用人たちのおまるの中身は、共同場と呼ばれた共同トイレに捨てられたが、二つの便座を備えたこのトイレには男女の区別もなく、使う際に何の慎みもなかった」。おかげで汚水は壁のすきまを伝って染み出し、空気を汚した。配管はよく詰まり割れ目が生じていたので、王妃付きの食膳部さえ汚水に覆われ、悪臭が充満していた。おまけに、使用人たちは溲瓶(しびん)の中身を城館の窓から平気で捨てたのでバルコニーの花は汚水で枯れた。「トイレの数はそもそも、宮廷に出仕している者とその召使いたちを含め、城館の人数に見合ったものとはほど遠かったからだ。数がまったく足りないため、尿意をもよおした者は、廊下や階段や中庭で用を足した」。もちろん、人々が催したのは尿意だけではなかった。その結果、宮廷全体が離宮に移動して留守にしている間にヴェルサイユ全体を大掃除させなければならなかった。

アメニティの悪さは暖房や採光においても同じだった。「薪(まき)を十分に備えてあっても、庭に面した王族の居室は暖炉では十分に暖まらなかった。広くて天井の高い部屋は、天井の方へと熱が逃げてしまい、巨大な窓からはすきま風が入ったからだ」。そのためストーブが導入されたがこれは後付け煙突の弊害、つまり火災と窒息の危険をもたらし、宮殿の美観を損ねた。照明は蝋燭(ろうそく)と鏡だけが頼りで、どの部屋も薄暗かった。

ことほどさように、王朝初期に栄光の象徴だったヴェルサイユ宮殿は、末期には体制の衰微そのものを体現してしまっていたのである。『ベルサイユのばら』のカウンターとして読まれるべき一冊である。(北浦春香訳)
ヴェルサイユ宮殿に暮らす—優雅で悲惨な宮廷生活 / ウィリアム・リッチー・ニュートン
ヴェルサイユ宮殿に暮らす—優雅で悲惨な宮廷生活
  • 著者:ウィリアム・リッチー・ニュートン
  • 翻訳:北浦 春香
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(243ページ)
  • 発売日:2010-06-23
  • ISBN:4560080720
内容紹介:
豪華絢爛な建物の内部は226の居住空間からなる巨大迷路。18世紀、ここには王を頂点に1000人以上がひしめきあって暮らしていた。雅びにみえる貴族たちの日常生活とは!?

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2010年7月11日

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