欧州宮廷が服従した「モード大臣」の時代
一昔前にはフランス革命史の原因の一つに王妃マリー=アントワネットのファッションへの浪費が挙げられていた。当否はともかく、フランスが今日もファッション帝国主義の覇権国でいられるのは明らかに王妃がファッションに熱をあげたおかげである。この意味で、王妃の「モード大臣」と呼ばれたローズ・ベルタンの伝記があってもいいと思っていたが、ようやく本格的な評伝が現れた。本名マリー=ジャンヌ・ベルタンは一七四七年、ピカルディの騎兵憲兵隊員の家に生まれ、九歳で見習いとしてモード業界に入り、十年後にパリに出て、ジェーヴル河岸の店に入る。ここまではお決まりのコースだったが、ベルタンは才能と技量、センスと野心が他とは違っていた。容姿に恵まれていなかったことも幸いしたと著者は指摘する。容姿端麗の娘はそれだけ誘惑にさらされ、娼婦に身を落とすケースが少なくなかったからだ。
サン=トノレ通りの高級モード店「トレ・ガラン」に移籍したベルタンはたちまち頭角をあらわし、シャルトル公(後の平等公フィリップ)夫人のお気に入りとなって、パレ・ロワイヤル近くに「オ・グラン・モゴル(大ムガール帝国)」という店を構えるまでになる。
一方の当事者であるマリー=アントワネットはというと、フランス王室に輿入(こしい)れしながら流行とは無縁の生活を送っていた。前王妃の衣装係から前時代的なファッションを押し付けられていたからだが、一七七四年、ルイ十五世の崩御ですべてが変わる。自分で衣装を選べるようになったマリー=アントワネットのもとをシャルトル公夫人がベルタンを伴って訪れる。「この日から、ローズ・ベルタンは王妃の御用達となった。そして『マドモワゼル・ベルタン』という名が通るようになる」
当時、王妃の着替えを手伝えるのは高位の貴婦人のみと決まっていたが、王妃はこうした儀礼を全部廃止してしまう。王妃のお付きだったカンパン夫人はこんな証言を残している。「(王妃は)ベルタン女史が待つご自分の小部屋へと姿を消してしまわれます。そもそもベルタン女史は入室を許されてはいないはずなのですが。この部屋の中で、最新のたくさんの服飾品をご覧に入れるのです」。王妃は部屋割りを変更させ、ベルタンと面会するための小部屋を自室の近くに設けたのだ。こうした儀礼の廃止は宮廷婦人の不評を買ったが、モード大臣ベルタンは気にせず、独裁的権力を振るうようになる。「王妃が寵愛している人物だということで、みながその歓心を買おうとした。王妃がどれほどベルタンを信用しているかはだれの目にも明らかだったので、何か請願があれば取り次いでもらおうとしたのだ」
ライバルたちはベルタンを追い落とそうとしたが、王妃の信頼は揺るがず、ベルタンは王国随一のモード商という評判を確立し、その名声は海外にも響き渡った。ヨーロッパの全宮廷がローズの創り出すモードに絶対服従したのだ。
しかし、王妃とモード大臣の蜜月にも終わりがやってくる。フランス革命の勃発である。タンプル塔に幽閉中の王妃にリネンのスカーフを届けたベルタンは王妃の最期を見届けることもできずにイギリスに亡命。テルミドールの反動の後に帰国したが、もうその時にはベルタンの時代は去っていた。
フランス王朝は滅んだが、ベルタンの築いたフランス・モード王国は健在。「仕事で自己実現した女」の社会史の側面から本書を読むのもまた一興である。(北浦春香訳)