コラム

ハードボイルドは裏切りの文学か

  • 2017/07/01
優れた小説が必要とするものは、読者に次のページをめくらせる《仕掛け》である。あらゆる小説はまず、おもしろくなければならない。ただしそれは、おもしろければよいという意味ではない。読者に次のページをめくらせる要素を、わたしは広い意味で《サスペンス》と呼んでいる。それは《謎》でもいいし、《恋》でもよい。とにかく読者の心に鋭く食い込み、抗しがたい力で先へ先へと引っ張るものを言う。わたしはラベルを嫌うと言ったが、サスペンス作家と呼ばれるならば悪くない気がしている。俵万智さんの『サラダ記念日』なども、次から次へと読み継がせる緊張感はすばらしく、サスペンスに満ちた歌集といえよう。

サラダ記念日  / 俵 万智
サラダ記念日
  • 著者:俵 万智
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(201ページ)
  • 発売日:1989-10-01
  • ISBN-10:4309402496
  • ISBN-13:978-4309402499
内容紹介:
生きることがうたうこと…うたうことが生きること―なんてことない24歳が生み出した感じやすくひたむきな言葉。31文字を魔法の杖にかえ、コピーライターを青ざめさせた処女歌集。現代歌人協会賞受賞。

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三十年近い昔、ハヤカワ・ポケット・ミステリのあとがきなどに、都筑道夫さんが優れたハードボイルド論を書いていた。今では断片しか思い出せないが、日本でハードボイルドを書ける作家は石川淳一人である、という指摘だけはよく覚えている。都筑さんが石川淳の文学にハードボイルドを見た、というところがすごい。石川文学はまぎれもなくサスペンス文学だが、わたし自身はあの華麗な文体に目がくらんでしまい、いまだにハードボイルドとの関係を検証できずにいる。それはともかく、都筑さんはわたしに石川淳への道を開いてくれた恩人なのである。

* *

ミステリ以外の外国文学で好きだったのは、ドイツ浪漫派の作品群である。既成の形式美を打ち壊すのが浪漫派の一つの特徴で、ルートヴィヒ・ティークは『長靴をはいた牡猫』で破天荒な劇中劇を創造したし、E・T・A・ホフマンは『牡猫ムルの人生観』で奇抜な二重構造の小説を書いた。これは二つの独立した話が交互に脈絡もなく続くもので、わたしの『百舌の叫ぶ夜』はその手法を踏襲した作品といえなくもない。また『水中眼鏡の女』でも同じような手を使ったが、これは読者を誤導するための間合いを計るのに苦労した。中には仕掛けがよく分からないという人も出てきて、読み手によって評価の分かれる作品になってしまった。

ある評論家に、わたしの小説の基調になっているのは《裏切り》である、と指摘されたことがある。自分では意識していなかったが、愛読するホフマンにも裏切りと復讐に満ちた小説『悪魔の美酒』があり、またわたし自身の長編第一作が『裏切りの日日』というタイトルだったから、もとよりその萌芽はあったのだろう。ちなみにこの作品よりはるか以前に、結城昌治さんの悪徳警官ものの傑作『裏切りの明日』があった。もちろんとうに読んでいたが、拙作のタイトルとわずかに一字違うだけであると気づいたのは、なんと本ができたあとだった。あれこれと考え尽くしたあげくのタイトルだったが、無意識のうちに真似をする結果になってしまった。結城さんには申し訳ないことをしたと思っている。

わたしが裏切りを書くとき、その前提には《人間とは裏切りの動物である》という思いがある。人間がドラマを生むのは、それが裏切る存在だからだといってもよい。ハードボイルドはあるときには裏切りの文学であり、あるときには裏切りに対する復讐の文学である。人間の心の中には忠節と裏切り、正義と邪悪、道義と背徳など、相対立する概念がつねにせめぎ合っている。そのコントラストの強さがドラマを呼び、その闘いがハードボイルドの精神を生む。このような対立概念のどちらを是とし、どちらを非と認めるかは、きわめてむずかしい問題といわなければならない。正義も真実も、一つしかないとは限らないからである。

(次ページに続く)
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中央公論

中央公論 1987年秋

雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。

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