作家論/作家紹介

【ノワール作家ガイド】トマス・ウォルシュ『マンハッタンの悪夢』『深夜の張り込み』『針の孔』

  • 2017/10/14
トマス・ウォルシュは一九〇八年、ニューヨークに生まれた。コロンビア大学を卒業し、短期間だが「ボルティモア・サン」誌で記者として働いており、後の作品に見られるジャーナリスティックな視点はこの頃に養われたものである。大病を期に小説を読み始め、短篇小説を執筆するようになる。デビューは三〇年代の初頭で、パルプ雑誌「ブラックマスク」が主舞台である。長篇作家としてのデビュー作は一九五〇年の警察小説「マンハッタンの悪夢」で、この作品はMWAの最優秀新人賞を受賞した。

当時まだ警察小説は揺籃期にあり(ヒラリー・ウォー『失踪当時の服装は』が五二年に発表されて、初めて警察小説が広範な読者に読まれるようになった)、『マンハッタンの悪夢』は先駆けとも言える作品だが、ウォルシュ本人は決して警察小説の捜査過程そのものを書こうとしたわけではなかった。アイルランド人の典型として、ウィリー・カルフーンという主人公を描くことが目的だったのである。石油会社社長の息子が誘拐され、マンハッタン駅が取引の場所として指定されたため、鉄道警察が駅の警備にあたる。その陣頭指揮をとるのが、ウィリー・カルフーン警部補である。

『マンハッタンの悪夢』は発表の年にルドルフ・マテ監督で映画化されているが(邦題『武装市街」)、これはミステリーの映画化としては、もっとも成功した部類の作品である。それは、ウォルシュがもともと視覚効果を計算に入れてこの小説を書いているからだ。特に誘拐された少年が犯人の手から逃れて、駅の模型鉄道の裏に隠れる場面では、頭上に中央ホールの巨大なドーム屋根がそびえ、かたや少年の隠れ場所は極めてささやかなものである。高い天井は犯人の脅威の大きさと、捜査陣の焦りを暗示し、小さな隠れ場所は少年の無力さ、不安を示している。これらの舞台装置を用い、さらにカットバック手法でウィリーや犯人、少年それぞれの心理を丹念に描いていくのだ。

二〇世紀に誕生した映画は表現手段の大きな変革をもたらしたが、特に一九四〇年代以降、光と影のコントラストや遠近法などを利用してある種の雰囲気を作り上げる技法が発達し、それまで観客が想像するしかなかった登場人物の心理的風景などを、人工的に画面の上に表現することができるようになったのである。このことが、ねじれた心理や、矛盾した感情などを表現する必要があるノワール小説の映画化――フィルム・ノワールを可能にしたのだ。そしてその結果、最初からフィルム・ノワール的視覚効果を狙った小説も現れてきたのである。小説と映画のこの相互補完的な関係が、初期ノワールの特徴である。

ウォルシュの第二長篇『深夜の張り込み』(五二)もまた映画化された作品である。邦題は『殺人者はバッヂをつけていた』(五四、リチャード・クワイン監督。脚色は『女豹』ノロイ・ハギンズ)。ウォルシュは、『深夜の張り込み』を元に、ビル・S・バリンジャーの作品から得た着想を加えて、映画用に新しいストーリーを書き下ろしたのである。原型の『深夜の張り込み』は、悪徳警官の物語である。より正確に言うと、金の魔力に負けて道をふみ外してしまったのだ。四万ドルを強奪したまま逃走した犯人の立ち回り先のアパートメントを三人の刑事が張り込んでいるうちに、その一人に邪まな心が芽生えてしまう。ここでも建物(ホーソン・クレセントー七七五号館)が、三人の憔悴を集めるための象徴として効果的に使われている。『マンハッタンの悪夢』でも犯人の卑劣さは描かれているが、本書の堕落した警官に投げかけられる視線はより残酷である。

以降、ウォルシュは一作ごとに舞台と主人公の設定を替え、ノワール的なテーマを順繰りに描いていく。まず、第三長篇『暗い窓』(五六)は、ホテルを舞台に、ホテルに宿泊する著名な亡命僧正を誘拐せんとする悪党と、ホテルの保安主任との攻防を描いていた作品である。巨大な建物の構造が舞台装置として複雑な心理を描くのに貢献しているのは、処女長篇と同じだ。この小説ではさらに、主人公に拳銃で撃たれて障害を負ったという過去を追わせ、剥き出しの暴力にさらされた人間の恐怖と、その克服というテーマが描かれる。

第四長篇『危険な乗客』(五九)では、タクシー会社の経営者を主人公に、不条理なトラブルに巻き込まれた男の行動が描かれる。物語序盤にタクシー連転手の殺害シーンがあるが、直接的な暴力表現が使われているのに、フレームのゆがみのために、悪夢のような印象を与える。もっとも技巧的な小説である。

長篇第五作は『暗い窓』(六一)である。自分の兄の妻を殺した犯人の名前を知ってしまった神父が、聖職者としてのつとめから口を閉ざし続け、捜査陣と対立する。罪に対する裁きの苛烈さはいや増しているが、同時に善と悪の緩衝地帯である神父の存在をはさみこむことによって、黒白のはっきりしない灰色の地帯を生み出すことに成功してもいる。ウォルシュの長篇としては初めて宗教的なテーマが前面に出ており、かなり先駆的な作品と言えるだろう。続く『脱獄と誘拐と』(六二)は、コミカルな犯罪小説だ。弟が敵国の捕虜になった犯罪者が、相手国の主席を誘拐して弟の釈放を迫るという現実ばなれした設定の小説で、どちらかといえばジョージ・V・ヒギンズを思わせるようなところがあり、これまでの作品とはまったく違う作風なのは、あるいは流行のスパイスリラーの要素を取り人れようとしたものだろうか。

こうして振りかえってみると、ウォルシュの功績は、ノワール的世界観を中産階級のさまざまな職業の人間の上へと拡大し、しかもそれを視覚効果などの技巧センスで完遂した点にあるといえるだろう。ノワール的技巧の手本として、再評価されるべき作家である。

トマス・ウォルシュ、一九八四年没。

【必読】『マンハッタンの悪夢』『深夜の張り込み』『針の孔』
マンハッタンの悪夢   / トマス・ウォルシュ
マンハッタンの悪夢
  • 著者:トマス・ウォルシュ
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:-(177ページ)

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深夜の張り込み  / トマス・ウォルシュ
深夜の張り込み
  • 著者:トマス・ウォルシュ
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:文庫(237ページ)
  • 発売日:1961-02-24
  • ISBN-10:4488149014
  • ISBN-13:978-4488149017

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針の孔   / トマス・ウォルシュ
針の孔
  • 著者:トマス・ウォルシュ
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:新書(241ページ)

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ユリイカ

ユリイカ 2000年12月

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