船戸与一が数年前『非合法員』で、どちらかといえば地味なデビューを果たしたとき、日本に新しいタイプの小説が生まれたと直感した、目のある読者も少なくなかっただろうと思う(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1984年)。この作品は、日本人のCIAエージェントが南米を舞台に活躍する冒険小説で、現今のブームの先駆をなすエポックメーキングな傑作であった、何よりも感心したのは、船戸がこのデビュー作ですでに独自のスタイルと、小説世界を確立していた点である。
その後船戸は、この分野の作家が陥りがちな乱作の弊に堕することなく、着実に力作を発表し続け、今や冒険小説界を担う旗手の一人になった。船戸の小説の根底に流れているのは、まぎれもなくハードボイルドの精神であり、しかもその視点は最も厳密な意味で、ハメットのそれであるといえる。船戸にとって、チャンドラーの甘さやロス・マクドナルドの道学者的気取りは、おそらく無用のものだ。チャンドラーはハメットから出発し、マクドナルドはチャンドラーから出発したが、かりに時代が逆転してもハメットがこの二人を手本にすることは、決してありえなかったであろう。それを思えば、船戸のよって立つところは明らかである。
近年冒険小説ブームと称して、一部のファンが不必要にこの種の作品をもてはやすため、書き手がそれにスポイルされて本来の良さを失ってしまう傾向が目立つ。しかし船戸はその風潮に、頑強に抵抗する作家の一人といってよい。『山猫の夏』は、そうした船戸のここ数年の集大成ともいうべき大作である。物語自体は『ロミオとジュリエット』と『赤い収穫』のプロットを組み合わせたもののようであるが、それがいかにも船戸らしい力強さで処理されていて、千百枚という異例の長さをほとんど感じさせない。
ブラジルの一地方都市で、相反目する二つの家の娘と息子が駆け落ちし、その捜索を頼まれた「山猫」と自称する正体不明の日本人が、さっそうと登場するところから物語は始まる。この小説は一人称の構成になっており、主人公の青年の目を通して「山猫」の活躍ぶりを描く形をとっている。こうした構成は、「山猫」の直接的心理描写を避けて、外面描写だけでその人物を浮き彫りにしようという試みのために、とられた手法と思われる。しかも主人公が、単なるワトソン役で終わっていないところにも、意欲的な工夫のあとが見られる。
物語は前半の追跡行と、後半娘を連れ戻したあとの両家の対決と、二つの部分に分かれている。前半のスピーディな展開に比べ、後半「山猫」が両家や警察署長、駐屯軍司令官などをけしかけて町を争乱の渦に巻き込んでいく過程は、多少テンポが落ちるうらみがある。しかし全編に上質のマカロニ・ウェスタンの風情が溢れ、砂ぼこりに喉がいがらっぽくなるような現実感に満ちている。著者は取材のため現地を踏査し、さらに作品完成まで二年もかけたというだけあって、生の熱気がむんむん伝わってくる。とにかく最後まで一気に読ませる構成力は、たいしたものだ。
ことに多彩な登場人物に、それぞれ血のかよった人物像を与えた筆力と手際の良さは、特筆に値しよう。こうした作品は、不思議なことに直木賞の候補には決して上るまいが、この面白さこそ直木賞に欠けている要素ではあるまいか。間違いなく今年度の冒険小説ベスト3の一つだ。
【この書評が収録されている書籍】