架空の村からひもとく国家と戦争
もうすぐ8月がやってきて、テレビや新聞は戦争特集を組むだろう。「あの戦争」について語るとき、「太平洋戦争」に比重が行き、満州事変や満州国建設はその前史のように扱われることも多い。しかし、『地図と拳』を読んで、すっかり認識を改めた。満州を語らずして、「あの戦争」は語れない。日本が近代国家として産声を上げた明治時代からずっと、「仮想敵国」はロシアだった。ロシアを警戒して日本は朝鮮半島に侵出し、ロシアと戦争をして大連と旅順の租借権を勝ち取り、ロシアを牽制して満州国を作り上げる。その過程で中国と戦争になっても、中国人の抵抗など「三日で終わる」と高をくくる。日本人の甘い予測と願望を裏切って、日中戦争は泥沼の十五年戦争と化す。戦争を続けるには資源が必要だ。石油を求めて太平洋の島々を侵略する。そして米英やオランダなどの連合国までも敵に回す。ロシアに「満蒙(まんもう)」を奪われてたまるかという出発点のせいで。そんな、行き当たりばったりの日本の戦争が、一本の線で見えてくるような小説なのである。
とはいえ本書は、大上段に構えて「あの戦争とは何か」を声高に語り出す姿勢とは対極にあり、物語の主な舞台は、地図上ではかすかな点のような、小さな村である。
冒頭は日露戦争前。ロシアの南下を警戒する日本が送り込んだ密偵の高木少尉と通訳の細川は、松花江(スンガリー)の船上で、「李家鎮(リージヤジェン)」という村の噂を聞きこんだ。なんでもそこには「燃える土」があるという。「燃える土」=石炭。ロシア人も気づいていない、貴重な資源。
小説はこの架空の村、李家鎮の興亡史を語る、長い長い物語であり、複数の登場人物のエピソードを積み重ねていく群像劇でもある。
荒れ果てた土地を手に入れた男が、自ら「千里眼(チェンリーイエン)」と名乗り、「桃源郷」の噂を流して移民を呼び込み、「李家鎮」と名づけた。そこにロシア人の宣教師、いい思いができると騙された中国人の若者、そして日本のスパイが、次々にやってくる。
1899年から1955年までの五十数年に亘(わた)る個々のエピソードは、時系列には従うが、それぞれバラバラに置かれているように見える。理想を持つ建築家も、国粋主義者も、共産党員も、その転向者も、八路(パールー)軍の若者も、裏切り者も、等しく一定の距離を保って、その内面をていねいに描き起こされる。それらがしだいに、面を作り立体を作って壮大な構造物として立ち上がっていく過程は、本書のテーマの一つである「建築」を思わせもする。昭和の時代に入って、いよいよ日本と満州の関係が深くなってくると、複数のエピソードに顔を出す面々の意外なつながりや、お互いに見せていない顔が明かされたりして、600頁強の分厚い本なのに巻を措(お)かせない。
李家鎮の盛衰は、もちろん満州国そのものに重ねられる。満州国には「五族協和」「王道楽土」といった理想が掲げられた。本書中もっとも重要な登場人物である細川と、彼に見込まれて都市計画を任される須野明男(あけお)は、李家鎮に仙桃城(シェンタオチョン)という多民族共生の理想都市を造ろうとする。
細川が「地図と拳」について解説する逸話がある。曰(いわ)く、国家とは地図である。国家とは歴史や文化や理念といった抽象的なものの総体だが、唯一その形を具体的に表すものは「地図」である。ところが、その「地図」を作製するために、多くの場合「拳」つまり戦争がある。国家と戦争。それがタイトルの解題だ。
いくら「地図」に理想があっても、「拳」の現実は簡単に人を変質させてしまう。戦場が人から思考を奪い、殺人の道具に変える過程が、説得力を持って描き出される。差別や収奪、常軌を逸した人権侵害も、容赦なく書きこまれる。
けれど、この小説の中で「地図」は、ただ戦争の産物としての国境線や領土を示す図面としてだけ扱われるわけではない。むしろそこに、人々の営みや、祈りのようなものすら湛(たた)える容器として、読者に希望を見せてもくれるのだ。
過去は一本の道で、未来は交差点だと、登場人物のひとりが言う。なるほど過去に選択肢はないが、未来にはある。彼らにとっての未来である現在から見ると、過去にもいくつもの分岐点があったことが浮かび上がってくる。選ばなかった過去が、ありえたかもしれない現在を想像させる。そしてそれはまた次の未来を作るための材料にもなる。
徹底して個人のエピソードを連ねる書き方のおかげで読者は、その時代を生きた人々の思考を追体験する。未来予測を繰り返すうちに日本の敗戦が見えてしまった男と、天皇に心酔して徹底抗戦を誓う男が見ていた現実の、絶望的な重ならなさに愕然とする。
古地図に描きこまれた存在しない島の謎、戦時下満州に出没する大泥棒の盗品の行方、丸眼鏡の男の不可解な行動など、いくつものミステリーを配置しながら、読者をぐいぐいと終盤まで引っ張っていく物語は圧巻。エンターテインメントの王道を味わいつつ、「全体小説」という言葉を思い出した読書だった。