書評
『山椒魚』(新潮社)
実は私は、井伏鱒二にファンレターを出して面会を求めたことがある。驚くなかれ、返信が来た。病中につき難しい、とのことだった。当時はノーベル文学賞の候補に名前が出るほどの大作家に、一介の学生が会って何を話すつもりだったのか。理由はどうあれ、そんなことをしたのは生涯一度きりである。それほど井伏ファンだったのだ。
高校生だった私が、なぜ井伏鱒二にはまったのか、そのあたりの記憶は曖昧である。少なくとも教科書や、井伏と親交のあった太宰治経由でないことは確かだ。実家にあった中央公論社の「日本の文学」シリーズで読んでいたのかもしれない。
井伏鱒二の「山椒魚」といえば、教科書や受験問題の定番としておなじみだ。盗作疑惑――ほぼ事実無根らしいが――にさらされたり、作者自身があの有名なラストを改変したりと、作品とは無関係な風評ばかりが有名になってしまった。この新潮文庫版には、「山椒魚」やそれに勝るとも劣らない珠玉の名品計十二編が収録されている。あまり繰り返し読んだので、登場人物のセリフは今も暗唱できるほどだ。
永劫回帰を思わせる名品「へんろう宿」、ダムに水没する村をテーマとしたモダンな短編「朽助(くちすけ)のいる谷間」、カフカが笑いながら書いたような不条理劇「夜ふけと梅の花」、勤務先ごとにキャラを変える番頭の喜劇「掛持ち」、つげ義春の名作漫画「もっきり屋の少女」をインスパイアしたことで有名な「言葉について」、ユーモア小説のお手本のような「女人来訪」など、ほかに類を見ない多様な魅力に溢れている。
中でもお気に入りは「屋根の上のサワン」と「シグレ島叙景」だ。銃で撃たれて傷ついたがんとの出会いと別れを描く前者と、廃船アパートに暮らす凸凹カップルの喧嘩仲良しぶりが楽しい後者。しかし若かりし頃の私がなによりも共感したのは、両作品の語り手である「わたし/私」の屈託と孤独だった。これがために「わたし/私」は、サワンが仲間とともに出立するのを止められず、カップルの口論を傍らで眺めることしかできない。「生の現実」から隔てられた「わたし/私」は、ひたすら観察し記述するほかはない。しかしその孤独は、自嘲混じりの飄然(ひょうぜん)たるユーモアにくるまれて、豊穣なメランコリーへと昇華されていく。意味や物語へと凝固したがる現実を、ユーモアで脱臼させときほぐすその手法は、後年の名作「黒い雨」まで一貫している。
高校生だった私が、なぜ井伏鱒二にはまったのか、そのあたりの記憶は曖昧である。少なくとも教科書や、井伏と親交のあった太宰治経由でないことは確かだ。実家にあった中央公論社の「日本の文学」シリーズで読んでいたのかもしれない。
井伏鱒二の「山椒魚」といえば、教科書や受験問題の定番としておなじみだ。盗作疑惑――ほぼ事実無根らしいが――にさらされたり、作者自身があの有名なラストを改変したりと、作品とは無関係な風評ばかりが有名になってしまった。この新潮文庫版には、「山椒魚」やそれに勝るとも劣らない珠玉の名品計十二編が収録されている。あまり繰り返し読んだので、登場人物のセリフは今も暗唱できるほどだ。
永劫回帰を思わせる名品「へんろう宿」、ダムに水没する村をテーマとしたモダンな短編「朽助(くちすけ)のいる谷間」、カフカが笑いながら書いたような不条理劇「夜ふけと梅の花」、勤務先ごとにキャラを変える番頭の喜劇「掛持ち」、つげ義春の名作漫画「もっきり屋の少女」をインスパイアしたことで有名な「言葉について」、ユーモア小説のお手本のような「女人来訪」など、ほかに類を見ない多様な魅力に溢れている。
中でもお気に入りは「屋根の上のサワン」と「シグレ島叙景」だ。銃で撃たれて傷ついたがんとの出会いと別れを描く前者と、廃船アパートに暮らす凸凹カップルの喧嘩仲良しぶりが楽しい後者。しかし若かりし頃の私がなによりも共感したのは、両作品の語り手である「わたし/私」の屈託と孤独だった。これがために「わたし/私」は、サワンが仲間とともに出立するのを止められず、カップルの口論を傍らで眺めることしかできない。「生の現実」から隔てられた「わたし/私」は、ひたすら観察し記述するほかはない。しかしその孤独は、自嘲混じりの飄然(ひょうぜん)たるユーモアにくるまれて、豊穣なメランコリーへと昇華されていく。意味や物語へと凝固したがる現実を、ユーモアで脱臼させときほぐすその手法は、後年の名作「黒い雨」まで一貫している。
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