選評

『後巷説百物語』(角川書店)

  • 2020/02/02
後巷説百物語 / 京極 夏彦
後巷説百物語
  • 著者:京極 夏彦
  • 出版社:角川書店
  • 装丁:文庫(787ページ)
  • 発売日:2007-04-22
  • ISBN-10:4043620047
  • ISBN-13:978-4043620043
内容紹介:
直木賞受賞作がついに文庫で登場

第130回(2003年下半期) 直木賞

受賞作=江國香織「号泣する準備はできていた」、京極夏彦「後巷説百物語」/他の候補作=朱川湊人「都市伝説セピア」、馳星周「生誕祭」、姫野カオルコ「ツ、イ、ラ、ク」/他の選考委員=阿刀田高、五木寛之、北方謙三、田辺聖子、津本陽、林真理子、平岩弓枝、宮城谷昌光、渡辺淳一/主催=日本文学振興会/発表=「オール讀物」二〇〇四年三月号

巨大と堅緻と

『都市伝説セピア』(朱川湊人)には、上手に仕立てられた短編が五つ収められていて、中でも「昨日公園」はうまくできている。〈時間が繰り返し再生される〉というアイデアそのものはそう珍しいものではないが、その月並みなアイデアを巧みに展開して読み手をわくわくさせながら、おしまいに死という人生最大の真実を突きつけてくる手腕に凡手には及ばぬ才があって、これは佳品だった。また、五編中三編までが一人称の語りで進められて行くが、その一人称の語りそのものの中に小説の〈落ち〉を忍び込ませておく手口も鮮やかだ。ただし、いくら鮮やかでも、同じ手口がいくつも続くと、やはり読者に見破られてしまう。他の手もたくさん見せてください。

『ツ、イ、ラ、ク』(姫野カオルコ)は、全体の五分の四をすぎて、中学時代の美術教師の小山内先生の葬式の場面あたりから、ようやく傑作の光を放ちはじめる。中学時代にこの世でただ一度の恋をした本作のヒロインの、その想いの切なさ深さが一気に溢れ出して、活字さえも濡れて光ってくるようで、このへんは大好きだ。けれども、そこへくるまでの文章に文学的ケレン味が氾濫し――もちろん、一つずつ取り出せばそれぞれおもしろいし、作者の大事な個性でもあるから尊重はするが――しかし、読者には邪魔だったかもしれない。というのは、そのケレン味が、たいてい〈余談〉として語られているからで、まっすぐな恋のひたむきさとそのおもしろい余談とが、うまく溶け合っていなかったようだ。

『生誕祭』(馳星周)の主人公の青年はバブル期の社会登攀者(とうはんしゃ)の一人、「地上げ」という、半分は詐欺師のような、もう半分は暴力団のような仕事に全身を打ち込んで、その際に得られる〈体温が上がる感覚〉にしびれている。この感覚こそが青年には生きている証(あかし)なのだが、しかし仕事がさらに過熱するにつれて、彼は四方八方にウソをつかなければならなくなる。どれもこれも命懸けのウソで、一つでも成り立たなくなると、世界は解体してしまう。じつはバブルの時代の精神構造がそうだったわけだが、作者は、小説の構造とバブル期の狂気を巧みに重ね合わせながら、短い文を連射してきびきびと緊張した人間関係を築き上げて行く。みごとな力業で、ここまでは感嘆に値いする。けれども後半の、世界崩壊の過程が少しばかり単調にすぎた憾(うらみ)があって、それが残念だ。

『号泣する準備はできていた』(江國香織)に収められた十二の短編には、すみずみにまで巧緻な工夫がほどこされている。そのほんの一例、たとえば表題作もそうだが、大上段にふりかぶった巨きな題名と、物語にまでまだ発展していないような小さな心の動きの組合せがそれで、つまり内容と題名の「美女と野獣」式の組合せから、一瞬の、倒錯した陶酔感が立ち上がり、それが読者にはたまらない魅力である。もとより作者の本領は別にある。いい物語をしっかりつくって、それを言葉の意味を上手に使って展開するというのが、これまでの小説の常識だったが、作者は物語の枠組みを消し去って、人生の大事業である恋愛物語ではなく、そのごくごく一部分だけを堅緻に書いた。わたしたちの愛する物語はどこへ行ってしまったのか。作者は、その物語は読者が持っているはずだといっている。作者はあなたの恋愛物語(個人的で絶対的な真実)の爆発に点火するだけですよと。これまであまり例のなかった〈読者参加の恋愛物語〉が、作者の緻密な言葉遣いによって、ここにみごとに成就した。

『後巷説百物語』(京極夏彦)は、〈ありもせぬ妖異を見て「祟りだ」などと騒ぐのは、人間が心の闇にさまよっているからだ〉という明快な主題を持っている。この見方は、四谷怪談の伊右衛門の心の動きを掴まえるときも、ブッシュ大統領の心理を探るときにも役立つから、つまりは普遍的なものである。この明快な主題を、日本と中国の古典や江戸随筆から民族学や文化人類学や歴史学までに及ぶ広く深い造詣で隠して、作者はおどろおどろしい物語を築き上げているが、もう多言を弄する愚は犯すまい、言葉だけでこれほど不思議な世界を、同時に明快な世界観を創り出した事業に拍手を送るばかりである。その上で一つだけいう。作者の独特な文字遣い、句読点の打ち方、そして改行の仕方が、心地のよいリズムを生み出していて、そのリズムが読者を自然に作中へ導き入れてくれるが、まさにこのとき、読者は、物語が自分の中で発生していることを発見するにちがいない。これこそが小説を読む楽しみだ。

「読み手の中にひとりでに物語を発生させること」が、いい小説であるとするなら、巨大と堅緻、構えは対称的だけれど、京極さんも江國さんもすてきな小説を書いたのだ。これからも読者を魅了する作品をうんと書いていただきたい。
後巷説百物語 / 京極 夏彦
後巷説百物語
  • 著者:京極 夏彦
  • 出版社:角川書店
  • 装丁:文庫(787ページ)
  • 発売日:2007-04-22
  • ISBN-10:4043620047
  • ISBN-13:978-4043620043
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直木賞受賞作がついに文庫で登場

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