書評
『文庫版 絡新婦の理』(講談社)
京極夏彦とドラゴンクエスト
京極夏彦の作品を読んだことがなかった。だから、少し前のこと、ミステリーに詳しい友人に訊ねた。「あのね、京極夏彦の作品っていうのは、一言でいうと?」
我が友は明快に答えた。曰く、
「ドラゴンクエスト!」
「なるほど」とわたしは呟いた。
しかし、なにが「なるほど」なのか、頷いた当人にもわからぬまま、ついに作品に遭遇した。それが、新作『絡新婦(じょろうぐも)の理(ことわり)』(講談社ノベルス)。読みおえた瞬間、わたしは叫んだ。
「ドラゴンクエストか。なるほど!」
以上でわたしの感想は尽きているのだが、それではなんのことだかわからないだろうから、もう少し書いてみる。
『絡新婦の理』を読みはじめたのは、十二月二日、ロンドン、ヒースロー空港発VS900便に搭乗してから。といっても、すぐにではなく、飲み物(ビール)をいただき食事(松花堂弁当)をとり、それから食後の一服代わりに、機内で上映されている「インデペンデンス・デイ」を見終わってから(これも全編ではなく、UFO母船がワシントン上空に出現してから。特撮部分であんなに金をかけてるのにどうしてこれほどテレビのようにちゃちに見えてしまうのか、よほど監督がひどいのだろう、これほどひどいのはあの「スターゲイト」以来だなと思ってプログラムを見たら、なんと「スターゲイト」の監督だった)。ここまでですでに三時間経過。東京までおよそ十一時間半かかるから、残り八時間半しかない。そしてようやく『絡新婦』にとりかかった。面白い。止まらない。睡眠時間をどうしよう。結局、読み終わったのは、東京へ着く一時間半前である。とうとう眠る暇がなかった。そのため、この原稿を書いているいまも眠い。
さて、これから京極夏彦作品がドラゴンクエストであることを説明する。
いくら『失われた時を求めて』や『ボヴァリー夫人』が傑作だからといって、睡眠時間を削ってまでは読めない。眠くなる。抵抗できない。しかし、『絡新婦の理』なら読める。というか、読まずに頁を閉じることができない。これをもって、京極作品をプルーストやフロベール作品の上に置くのは早とちりである。また、片方を芸術、片方をエンタテインメントとして事足れりとするわけにもいかない。
ぼくの考えでは、京極作品とプルースト・フロベール作品とでは刺激する脳の部位が違うのである。京極作品は眠くなっても読むことができる。眠くなるに従い、人の内部には無意識がせり上がってくる。京極作品が刺激するのは、その部分である。だから、いくら眠くなっても、頁をめくるのを止めることができない。いや、眠くなるほどかえって、読み続けたくなる。たぶん、刺激されて脳内エンドルフィンが出ているのではないか。ドラゴンクエストをやっている時と同じである。
時代は昭和二十八年、まだ戦争の残滓が至るところに見つかる頃である。そして、連続殺人である。旧家と絶世の美女たちである。伝承と隠された宗教である。意図的に使用される古めかしい言葉である。そのどれもが、ここに書かれている世界は、我々の現実とはなんの関係もないとことわっているのである。だからこそ、我々は安心して読み続けることができるのである。ドラゴンクエストもそうではなかったか。
そう、一回「はまる」と抜けられなくなるのもドラゴンクエストの重要な属性である。実は、成田からの帰り、前作『鉄鼠(てっそ)の檻』を買ってしまったのである。きっと、次作の『塗仏(ぬりぼとけ)の宴』も買ってしまうに違いない。いやはや。
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