書評
『樹の上の草魚』(講談社)
タブー菌と恋愛小説
恋は障害を食って拡大再生産される。読者はいつも恋愛小説に飢えているのに、それがなかなか供給されない。供給側(小説家)にも事情があって、パンよこせと押しかけられても、小麦粉や焼き機はなんとか間にあわせることはできるが、肝心のイースト菌が払底(ふってい)しているのだから応えようがない。イースト菌とはすなわち障害、言い換えるならタブー。たとえ西欧の神ほどのタブーではなくとも、わが国にもかつては身分差とか、姦通罪とかいったタブーはあって、まあ恋愛小説の変種といわれる程度のものは生産してきた。
タブー菌がなければ恋愛小説は焼けない。いや書けない。いまやそんなものはなくなって、一作ごとに新しくタブー菌を必死で培養しなければならない。
薄井ゆうじの『樹の上の草魚』は、両性具有者の恋という奇妙な恋愛小説をひねり出した。
恋愛小説を書くぞ、という熱も工夫もしっかり伝わってくる。なかなかいいぞ、これは。
主人公はのちに女性になるヒロシと、たくましい柔道選手で四つ歳上の亘(わたる)。ふたりは少年のころ、小さな沼にひそむ巨大な草魚を釣ろうとして出会った。反発しあい、惹かれあい、友情とも愛情ともつかない微妙な関係のなかで成長してゆくが、ヒロシは二十二歳のとき、ペニスが自然に剥落して、完全な女性に変わる。
ヒロシの下腹部に変化が起きた。そして彼は陰茎と陰嚢(いんのう)、そして男性の内性器のすべてを、まるで子供を産み落とすかのようにゆっくりと離脱させた。そのあとにはきれいな女性の外性器が現れた。そのとき、ヒロシの体が一瞬だけ透明になって輝いたように見えた。それはまるで脱皮したばかりの昆虫の輝きのようだった。
この場面は、物語のちょうどまんなかに置かれている。ここからがほんとうの恋愛小説のはじまりだ。ところで、恋愛小説には風俗描写と心理描写が欠かせない。ちゃんとある。
亘が勤務するNTTの電話交換機フロアがくり返し登場する。二十万回線もあって、人と人の通話の接続音が、たえずかちりかちりと響いている。亘はこのフロアの苦情と故障修理係だ。ある日、アナログ交換機からデジタル交換機に一斉に切り替わる。すべてが自動化され、亘の仕事は不要になる。かちりかちりという音ももう響かない。このアナログからデジタルへ、つまり風俗のチェンジがとてもうまく活写されている。
男から女へ、アナログからデジタルへ。このふたつのチェンジがそれぞれの身に起きて、恋を加速させるという工夫だ。
心理描写は、微に入り細をうがっている。
心理というのは、じつはそのままでは描けないもので、双方に思い違いや取り違えが生じ、事件となってはじめて読者を打つものになる。この小説では、自分が男だか女だかふんぎりのつかないヒロシの心理と、男から絶世の美女へと変身してしまったヒロシを前にした亘の驚嘆し、焦る心理のたたかいとからみあいが主旋律になっている。従って、そこから生み出される思い違いも取り違えもより深刻で、時にひどく滑稽にならざるをえず、そのためよけい恋が強まってゆく様相が精妙にとらえられていて、あきない。
そして、上出来の恋愛小説の例にもれず、読者の興味は主人公の心理から、副主人公や点景人物たちのこの恋へのかかわりぐあいへ、なによりも主人公のふたりがその恋を抑えるその抑え方へと移る。つまり心理から行動へ、だ。読者は、ヒロシはいつ亘に身を任せるだろうか、と固唾をのむ。
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