作家論/作家紹介

ハドリー・チェイス『ミス・ブランディッシの蘭』『蘭の肉体』『世界をおれのポケットに』

  • 2017/10/11
ジェイムズ・ハドリー・チェイスというのは本名ではない。本名はレネ・ブラバゾン・レイモンド。おそらくはフランス系だろう。一九〇六年、口ンドンに生まれている。成人してからは出版関係の職をいくつか経験していたが、アメリ力産のハードボイルドがイギリスでも関心を持って読まれていることを知り、アメリ力のスラング辞典を片手に、会社を休み六週間で処女長篇を書き上げた。それが、問題作『ミス・ブランディッシの蘭』(三九)である。

『ミス・ブランディッシの蘭』を問題作と言うのは、この本が数十万部も売れたのちに、いったん絶版になっているからだ。小説の中の残酷描写が問題視されたのである。邦訳は該当個所を削除した版を元にしているため、判断の是非は下しようがない。

この小説は、大富豪の娘であるミス・ブランディッシが誘拐されるところから始まる。犯人はライリーというちんぴらやくざだが、さらにその上をいく悪が登場する。女頭領に率いられたグリッソン・ギャングである。グリッソンの息子であるスリムは悪党仲間でも恐れられる冷血漢だが、彼がライリーたちの悪さを察知して、肝心の獲物を横取りしてしまうのだ。当然のように、ライリーは殺される。このライリーが実はマゾヒストで、スリムのナイフに貫かれた瞬間にオーガズムに達する――というのが、削除された個所のーつであるらしい。

グリッソン・ギャングは身代金を奪って身を隠してしまう。しかも娘はスリムの慰みものにされるのだ。ここでブランディッシに雇われた私立探偵・デイヴ・フェナーが登場し、成功報酬を目当てに娘の身柄を捜すことになる。

本書がノワールとして優れている点はいくつかあるが、もっとも重視すべきなのは、悪党であるスリムと、雇われ探偵であるフェナーの双方が大金を目当てに動く男であり、道徳的な観点からすると、フェナーもスリムとあまり変わらない存在であるという点である。つまり、主要な登場人物がみな善悪不明の「灰色」の存在であるということだろう。ちなみに、ジョージ・オーウェルはこの小説を指して、目的のために手段が正当化されるファシズムの権化であると非難している。

もう一点は、サディスティック小説とでも言うべき、残酷な描写である。三九年の小説にしては、たしかに衝撃的な暴力描写が連ねられている。これが削除版なのだから、元版については推して知るべしだ。だが、残酷さは決して暴力描写だけに現れるものではない。チェイスは登場人物を、実に無造作に地獄の境地へと落とし入れるのだ。悪党どもに誘拐されたミス・ブランディッシがどのような扱いを受けたかは想像に難くはないが、その描写も現在では削除されていて読むことはできない。ただ、映画化作品である『傷だらけの挽歌』のラストシーンだけが、その雰囲気を伝えているのである。こういった酷薄さは、チェイス作品にはつきものであり、例えば『ミス・クォンの蓮華』(六〇)のヒロインの最期など、その最たるものである。

処女作の成功の後、チェイスは数冊フェナーを主人公にした長篇を書くが、すぐにその路線を放棄し、単発のサスペンスを書く方向に切り替えた。おそらく自己の作風がキャラクターによりかかって成立できるような類のものではないことを自覚したのだろう。以降の作品でもシリーズ・キャラクターは登場するが、真の意味でキャラクターに依存した小説はない。

何冊か主要な作品を上げ、もう少し詳細にチェイスの作風を検討しておこう。『蘭の肉体』(四二)は、ミス・ブランディッシとスリムの間に生まれた娘・キャロルを主人公にした続編である。母から美貌と財産を譲り受けた彼女は、同時に父の狂気をも受け継いでいた。そのため精神病院に監禁されていたのだが、ある嵐の晩に脱出する。その事実を知った男たちが彼女の身柄を狙って暗躍するさまを描く小説である。サリヴァン兄弟というサーカス芸人上がりの殺し屋がいかにも不気味だが、それよりもキャロル自身の方が怖い。彼女は暴力の衝動に駆られると、相手の顔に飛びかかり、目玉を潰してしまうのだ。一種の巻きこまれ型サスペンスでありながら、巻き込まれた主人公自身がいちばん危険というねじれが、いかにもノワールらしい。このテーマの変奏曲が、後に警察小説の『その男凶暴につき』(六八)でも奏でられている。

『世界をおれのポケットに』(五八)は、いくつかあるチェイスの襲撃小説の中でも白眉といえる作品である。四人のちんぴらギャングが赤髪の美女に現金輸送車襲撃を持ちかけられ、犯罪の絵図を描く。女をめぐる内輪もめのトラブルが前半の読ませどころだが、計画が失敗した後にそれぞれの面々が迎える最期が凄惨である。特にラスト・シーンはチェイス作品の中でも一、二を争うほどに切なく、胸に迫る場面である。卑しい犯罪を描いて、つき抜けたところにある美しさを描いた作品。『あぶく銭は身につかない』(六〇)は、ジェイムズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に似た設定が映える作品である。チェイスは悪女ものサスペンスの名手でもあるが、本書のヒロイン・ローラのような、溺れた男の人生を狂わす魔力をもった女性を描くのが抜群にうまい。結末の「ほかになにも、望めるものがないからだ」という言葉も、寂寞とした感慨を誘う一語である。

チェイスの作品はアメリカよりも、イギリスよりも、移住先のフランスで愛読された。セリ・ノワール叢書は、彼の作品を多く刊行しすぎたために「チェイスのためにある叢書」との陰ロをたたかれたくらいである。初期のロマン・ノワールは彼やジェイムズ・M・ケインなどの作品を鋳型にして発達したのであり、アメリカン・ハードボイルドとロマン・ノワールの間をつなぐ環としても、チェイスは重要な作家である。没年は一九八五年。七八歳だった。

【必読】
ミス・ブランディッシの蘭 (創元推理文庫) / ハドリー・チェイス
ミス・ブランディッシの蘭 (創元推理文庫)
  • 著者:ハドリー・チェイス
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:文庫(278ページ)
  • ISBN:4488133010

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蘭の肉体 (創元推理文庫 133-2) / ハドリー・チェイス
蘭の肉体 (創元推理文庫 133-2)
  • 著者:ハドリー・チェイス
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:文庫(374ページ)
  • 発売日:1963-03-01
  • ISBN:4488133029

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世界をおれのポケットに (創元推理文庫) / ハドリー・チェイス
世界をおれのポケットに (創元推理文庫)
  • 著者:ハドリー・チェイス
  • 出版社:東京創元社
  • 装丁:文庫(334ページ)
  • ISBN:4488133088

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初出メディア

ユリイカ

ユリイカ 2000年12月

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