コラム
ハードボイルドは裏切りの文学か
ハメットはきわめてストイックな、孤高の作家だった。『マルタの鷹』にせよ『ガラスの鍵』 にせよ、非常に抑制の利いた小説である。この二つの作品は、一人の作家が同じ表現手法を使ってまったく異なる二人の男を創造した、希有の小説といえるだろう。『鷹』のサム・スペードは単純明快で分かりやすい男だが、『鍵』の主人公ネド・ボーモンはなかなか一筋縄ではいかない。外見と行動だけを描いて、いっさい心理描写をしないハメットの手法は、ある場合には読者の正しい理解を妨げることもいとわない。実際ハメットの三人称小説は、書くのにたいへんな精神力を要する手法である。《思った》とか《考えた》、あるいは《感じた》などという主観的な言葉をまったく使わずに、一編の長編小説を書くことがどれだけ困難なことか、試しにやってみるとよい。わたしも一つ二つ習作を書いたが、とてもお目にかけられるようなしろものではない。
ネド・ボーモンを行動だけで判断すると、恩人を裏切ってばかりいるようにみえるだろう。しかし『鍵』は、チャンドラーの言葉を借りればまぎれもなく、徹頭徹尾、「ある男の一友人への献身の記録」なのである。ネド・ボーモンの、ある種超然とした不思議な魅力は、サマセット・モームの「こんな人物を創造できたら、作家は自慢してもよい」という賛辞が代弁してくれるだろう。
これらのことを理解すると、チャンドラーの『長いお別れ』は、実はハメットが『ガラスの鍵』において難解な手法で描いたテーマを、分かりやすく書き直したものであることが分かる。
フィリップ・マーロウは、一般にはサム・スペードの後継者のようにみられているが、わたしの考えではむしろネド・ボーモンの血筋を引く男だと思う。この世界ではどうしても、単純明快なスペードの方がモデルにされがちで、それが例えばスピレーンのマイク・ハマーなどへとデフオルメされたわけだが、もし後世の作家にネド・ボーモンに着目するだけの眼力があったら、ハードボイルド派もまた別の意味で隆盛を誇ったのではないだろうか。
わたし自身もハメットの方を高く評価するが、船戸さんほどチャンドラーをおとしめる気持ちはない。やはり、あの華麗な言い回しと小気味のよい会話は捨てがたく、若いころ傾倒したという意味では一番だっただろう。正直に言うと、『カディスの赤い星』はチャンドラーに捧げた鎮魂歌であった。あの作品には、わたしがチャンドラーから学んだすべてではないにしても、大部分のものが取り込まれている。しかしなぜかそれを指摘する人はいない。わたしの単なる思い入れ、一人相撲にすぎなかったのだろうか。
ところで、もう一人わたしに影響を与えた作家は、ジェームズ・H・チェイスである。チェイスは、おもしろい小説を書くこつを心得ている点で、根っからの職人だった。日本での彼の評価は、不当に低すぎる。わたしはハメット、チャンドラー以上に、チェイスから多くのものを学んだ。彼はサスペンスの持つ効果や、どうすれば読者をはらはらさせられるかを、心憎いほどよく承知していた。ストーリーテラーとしては、最高の資質に恵まれた作家である。数年前に亡くなったが、わたしにはハメットが死んだとき以来のショックだった。
そのほか好きな作家に、ウィリアム・P・マギヴァーンやエド・レイシー、トマス・ウォルシュ、ホイット・マスターソンなどがいる。この人たちに共通しているのは、警察小説が多いということである。わたしもこのジャンルが好きで、彼らの作品を読んだことが『裏切りの日日』や『百舌の叫ぶ夜』を生んだといってもよい。同じ警察小説でも、なぜかエド・マクベインはだめだった。一匹狼ものでないとおもしろくないのである。刑事がグループで事件を解決する、いわゆる捜査小説は好きではない。個人としての刑事が警察機構の矛盾と戦ったり、押しつぶされて悪の道に走るといった話に魅かれてしまう。マギヴァーンにしてもレイシーにしても、ハメットら正統派と同列に論じられることのない、不運なハードボイルド作家だった。しかしわたしに言わせれば、彼らはその後現われたネオ・ハードボイルド派の凡百の作家に比べて、ずっと心を打つものを持っている。アル中やホモの私立探偵が活躍するのは、それも時代の要請であろうからいっこうに構わないが、わたしには向いていないとしかいえない。
**
ハードボイルドの絶対値を出すことは、いつの時代も不可能だろう。とはいえ、このまま口をぬぐったのでは市が栄えないので、最後にわたしなりの定義を披露しておきたいと思う。
《ハードボイルド小説とは、ともすれば自分以外の人間になろうとする自分と戦う人間の、戦いの記録である》
【このコラムが収録されている書籍】
ネド・ボーモンを行動だけで判断すると、恩人を裏切ってばかりいるようにみえるだろう。しかし『鍵』は、チャンドラーの言葉を借りればまぎれもなく、徹頭徹尾、「ある男の一友人への献身の記録」なのである。ネド・ボーモンの、ある種超然とした不思議な魅力は、サマセット・モームの「こんな人物を創造できたら、作家は自慢してもよい」という賛辞が代弁してくれるだろう。
これらのことを理解すると、チャンドラーの『長いお別れ』は、実はハメットが『ガラスの鍵』において難解な手法で描いたテーマを、分かりやすく書き直したものであることが分かる。
フィリップ・マーロウは、一般にはサム・スペードの後継者のようにみられているが、わたしの考えではむしろネド・ボーモンの血筋を引く男だと思う。この世界ではどうしても、単純明快なスペードの方がモデルにされがちで、それが例えばスピレーンのマイク・ハマーなどへとデフオルメされたわけだが、もし後世の作家にネド・ボーモンに着目するだけの眼力があったら、ハードボイルド派もまた別の意味で隆盛を誇ったのではないだろうか。
わたし自身もハメットの方を高く評価するが、船戸さんほどチャンドラーをおとしめる気持ちはない。やはり、あの華麗な言い回しと小気味のよい会話は捨てがたく、若いころ傾倒したという意味では一番だっただろう。正直に言うと、『カディスの赤い星』はチャンドラーに捧げた鎮魂歌であった。あの作品には、わたしがチャンドラーから学んだすべてではないにしても、大部分のものが取り込まれている。しかしなぜかそれを指摘する人はいない。わたしの単なる思い入れ、一人相撲にすぎなかったのだろうか。
ところで、もう一人わたしに影響を与えた作家は、ジェームズ・H・チェイスである。チェイスは、おもしろい小説を書くこつを心得ている点で、根っからの職人だった。日本での彼の評価は、不当に低すぎる。わたしはハメット、チャンドラー以上に、チェイスから多くのものを学んだ。彼はサスペンスの持つ効果や、どうすれば読者をはらはらさせられるかを、心憎いほどよく承知していた。ストーリーテラーとしては、最高の資質に恵まれた作家である。数年前に亡くなったが、わたしにはハメットが死んだとき以来のショックだった。
そのほか好きな作家に、ウィリアム・P・マギヴァーンやエド・レイシー、トマス・ウォルシュ、ホイット・マスターソンなどがいる。この人たちに共通しているのは、警察小説が多いということである。わたしもこのジャンルが好きで、彼らの作品を読んだことが『裏切りの日日』や『百舌の叫ぶ夜』を生んだといってもよい。同じ警察小説でも、なぜかエド・マクベインはだめだった。一匹狼ものでないとおもしろくないのである。刑事がグループで事件を解決する、いわゆる捜査小説は好きではない。個人としての刑事が警察機構の矛盾と戦ったり、押しつぶされて悪の道に走るといった話に魅かれてしまう。マギヴァーンにしてもレイシーにしても、ハメットら正統派と同列に論じられることのない、不運なハードボイルド作家だった。しかしわたしに言わせれば、彼らはその後現われたネオ・ハードボイルド派の凡百の作家に比べて、ずっと心を打つものを持っている。アル中やホモの私立探偵が活躍するのは、それも時代の要請であろうからいっこうに構わないが、わたしには向いていないとしかいえない。
**
ハードボイルドの絶対値を出すことは、いつの時代も不可能だろう。とはいえ、このまま口をぬぐったのでは市が栄えないので、最後にわたしなりの定義を披露しておきたいと思う。
《ハードボイルド小説とは、ともすれば自分以外の人間になろうとする自分と戦う人間の、戦いの記録である》
【このコラムが収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする