作家論/作家紹介

【ノワール作家ガイド】A・D・G『病める巨犬たちの夜』『おれは暗黒小説だ』

  • 2017/10/26
A・D・Gの本名はアラン・フルニエである。わざわざ覆面作家になったのは、二〇世紀初頭に同姓同名の作家がいたためだという。一九四七年フランス中部ベリー地方のトゥール生まれ。一〇代の頃は犯罪が日常的な社会で過ごし、自らもある程度は軽犯罪に手を染めていたと考えられる。「ぞんざいに育てられた」というコンプレックスを抱きながらも詩作を続けるなど、才能の片鱗は覗かせており、七〇年にセリ・ノワール叢書の監修者マルセル・デュアメルに見出されて作家としてデビューする。この時、わずか二三歳である。同世代の作家ジャン・パトリック・マンシェットがジャン・ピエール・バスティドとの共著で作家デビューしたのが同年のことであるから、口マン・ノワールにとって画期的な年であった。そしてA・D・Gはマンシェットと共に、"セリ・ノワールの若き狼たち"と並び称されるようになる。

おもしろいことに、マンシェットとA・D・Gは戦友とでも言うべき間柄でありながら、政治的信念は正反対である。すなわちマンシェットが戦闘的極左であるのに対し、A・D・Gは極右である。この二人はともに一九六八年の五月革命を経験し、政治体制の動揺を目撃してきたはずであるが、おそらくA・D・Gは極左の世界革命思想にかぶれるには、ベリー地方の人間でありすぎたのだ。彼は民衆の言葉を代弁するものとして、ドイツ人の歴史書ではなく、赤い国の主席の語録でもなく、自分の生まれ故郷の言葉でしゃべることを選んだ。地方方言こそが真の民衆言語であるという、地方主義者の立場に立ったのである。

七〇年代の中盤に、セリ・ノワール叢書の刊行元であるガリマール社は一旦経営の危機に瀕している。セリ・ノワール叢書はもともとアメリカン・ハードボイルドを翻訳(翻案)して輸入することによって人気を博したのだが、さすがに輸入すべき作家が品切れになってきていた。同時に、マンシェットらが形成している左翼作家サロン(A・D・Gを除くほとんどのロマン・ノワール作家が左翼といえる)の弊害が起きていたのである。この状況を鋭く批判したのが、右翼系週刊誌『ミニュット』だった。後にA・D・Gが諷刺ルポルタージュを連載する雑誌である。しかしガリマール社はこの危機を乗り越えた。一九七九年、ロマン・ノワールは再び爆発的なブームを迎える。いわゆる「ネオ・ポラール」、政治的信念も含め、作家が小説を通じて強く自己を表明するタイプのノワールが隆盛になったのだ。

A・D・Gーマンシェットが七八年以前の先達として牽引役を果たしたことは間違いないが、この辺のミッシング・リンクとなる作品はわが国の翻訳事情では空白のままである。マンシェットには最晩年の作品も含め六作の翻訳があるが、A・D・Gはわずかに『病める巨犬たちの夜』(七二)と『おれは暗黒小説だ』(七四)の二作があるのみ。特に七九年以降の活動がまったく見えていないのが痛い。

それでも、ある程度邦訳作品から見えてくる部分もある。それは先述したような言葉に対するこだわりだ。彼がもっとも敬愛するノワール作家がアルベール・シモナンだというのはいかにも納得できる話である。シモナンは自ら隠語辞典を著すほどにフランスやくざ世界の隠語に詳しかったが、一九五七年に『現金に手を出すな』以降暗黒街を舞台にしたノワールを多作し、人気を博した。

もともとロマン・ノワールはアメリカン・ハードボイルドのステロタイプを換骨奪胎するところから始まった小説だが、同時にアメリカン・ギャングの隠語もまた大量に翻案されてとり入れられたのである。シモナンの功績は、小説の鋳型に当たる部分を輸入品に頼らず、手持ちの材料で自作した点にあった。ノワールという小説ジャンル(映画もそうだが)はアメリカに発生して各国に伝播したが、どの国でも同様にまず型を輸入するところから始まり、シモナンのような意図的な改革者によって中身のすげ替えが行われることによって独自の進化を遂げてきたのである。中身を替えても依然として変わらぬ雰囲気を湛えたままである点に、ノワールの枠組みとしての強固さが現れている。

A・D・Gの『おれは暗黒小説だ』は、作者自身を思わせるノワール作家が、奇妙な事件に巻き込まれる小説だが、ノワール特有の不安感を濃厚に漂わせつつ(見当識の異常による自己喪失感、期待役割が混乱することによる物語の浮遊感)、独自の言語による語りを完遂している。冒頭の一行「考えてみると十二の歳からということになる。おれはのべつ家をとび出していたね」から、結語の一行「「あ、ほんとう」おれいったんだ」に至るまで、軽快な言葉遣いがいささかも乱れることはないのである。

純粋なミステリーとしても素晴らしい独創性を持った作品である『病める巨犬たちの夜』は、繰り返し述べているように、ベリー地方の方言によって書かれた小説である。だが、さらに驚くことは、この小説がサン・ヴァンサンという小村の村民の一人称複数形「おれたち」で語られている点だ。「鈍くて、うたぐり深くて、早くいえばすこし遅れてて、迷信で頭がいっぱい」の村民たちには、共同意識と相反するような個の意識が発達していないから、「おれ」という存在もないのだ。そんな村にヒッピーの男女がやって来ることから始まる物語である。村人たちのヒッピーに対する認識とは「やつあの女を誰にでも貸す」し、「一九六八年の五月に、車に火をつけたりもした」というもので、その年が不作の「悪魔の年」であったことを、漠然とヒッピーたちと関連付けて考えているという程度。この設定がラディカルな方向に走れば、おそらくA・D・G版『サンクチュアリ』のような小説になったことだろう。しかし物語は意外な方向にねじけた(だが、これは傑作である)。未知の作品の翻訳によって、A・D・Gが再評価されることを期待したい。

【必読】『病める巨犬たちの夜』『おれは暗黒小説だ』
病める巨犬たちの夜   / A.D.G
病める巨犬たちの夜
  • 著者:A.D.G
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:新書(184ページ)

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おれは暗黒小説だ   / A.D.G
おれは暗黒小説だ
  • 著者:A.D.G
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:新書(216ページ)

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ユリイカ

ユリイカ 2000年12月

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