対談・鼎談

『鉄道大バザール』 (講談社)|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2017/11/13
山崎 この筆者は、いろいろなところでいろいろな人に会っているんですが、本当にその人に会って、その人の息づかいを伝えているんだなと思われる証拠があるんです。というのは、彼は京都で喜志教授と鴨原教授という二人に会っているんですが、この喜志君というのは、わたくしの年来の親友でして、彼が迷惑そうな顔をしながら、しかし実に心優しく、サービスこれつとめて、この若い小説家につき合っている模様が浮かびあがっている。これは実在の喜志君に間違いない。

ただし、筆者は新幹線の中で、遠山教授という人物に会うんですね。もし、この遠山教授という人が実在の人で、しかもセルー氏が言うとおり、この教授がソール・ベロー(アメリカの作家)を京都の悪名高きストリップに連れて行ったんだとすると、ソール・ベロー氏は、わたくしの知る限り、二度、京都のストリップ劇場を見ておりまして、二度とも同じように感心したらしい……(笑)。

ちなみに、遠山教授はわたくしでないことを断言しておきます(笑)。

丸谷 ずいぶんややこしい告白のしかただったなあ(笑)。

山崎 次にわたくしには、彼がいかにもベトナム戦後のアメリカ人だな、と思われたんです。図式的にいうと、かつてアメリカ人が外国を見るときに、二つの態度があった。宣教師的な態度で、アメリカの原則の上に立って諸外国をめったやたらに切るか、それでなければ、逆に非常な自己嫌悪の感情の上に立って、アメリカ以外のものは何でもいいというか、そのどちらかなんです。ところが、この人には、基本的な一つの立場がないんですね。

木村 なるほど。

山崎 そして彼自身、書いてますが、汽車に乗って世界の国々を駈け回るというのは、ある意味で、旅行記としては非常に浅薄というか、いわば上っ面をなでて行くにすぎない行為なんですね。この筆者が意図的にとっている態度は、汽車に乗って見える程度のところを、ちょっとお毒味をして回るだけです。

そういう姿勢で邦訳にして三百五十ページばかりの分量を書きまくった。そこに、ふとある種の神経症的なものを感じるんですね。つまり、この人は汽車から降りられない人なんです。降りて、ものに直面したときに、この人はきっとたいへん恐怖を覚えるんだろう。その点にも、あるいはベトナム以後のアメリカ人というものが、顔をのぞかせているかもしれない。

丸谷 旅行記ってものは、そもそも針小棒大なものなんですよね。たとえば日本人と会う。会った人間が二人で、彼らが早口であったとすると、日本人というのはむやみに早くしゃべる民族である、これによって彼らがいかに工業主義的能率主義によって侵されているかがわかる、というふうに、わずかな例から極端な一般化をもってきて、大げさに書くことによっておもしろさを出す。そういうことが、旅行記の方法として基本的にあると思うんです。その旅行の中でも、もっとも極端なのは、汽車で通りすぎることなのね。この本は、旅行記というものの最も極端な形、という感じがします、だから、旅行記という形式の戯画化みたいな……。

山崎 そうです。旅行記のパロディだという気がしました。

自分にはものが見えないという断念の自覚、あるいは人間がある土地に十年住もうが二十年住もうがどれだけ見えるだろうか、という反省が聞こえてきそうな気がするんです。要するに、汽車で駈けめぐってゆく、そこにしか自分はないじゃないかという……、少し大げさにいえば、さまよえるオランダ人ですよ。そういう印象が残るんですね。

丸谷 いまのアメリカの若い知識人の異様な寂しさってものが出ている本だねえ。

山崎 本当にそうですね。つまり、”袖触れ合うも他生の縁”という言葉がありますが、この人は、他人と袖しか触れあわない状態を延々と何ヵ月も続けているわけですね。そこに自分を限定して一冊の作品を書きあげるというのは、かなりポジティブなニヒリズムですね。

丸谷 オールビーというアメリカの劇作家に、『動物園物語』という芝居があります。他人から関心をもってもらいたいんだけど、いくら話しかけても相手になってもらえない。それで相手を殺してしまう、という若い男の話です。ああいう、人間関係の欠如した社会の人間が、人間関係を求めようとすれば、汽車に乗って隣の席にすわった男と話をすればいいわけで、この本には、そういう恐ろしい面がありますね。

山崎 そうなんです。

たとえば京都で喜志君という人物に会いまして、一軒のバーで午前二時まで話しこみ、〈日本のユーモアの多様性からトマス・ミドルトンの『女よ、女に御用心』における灰かなエロティシズムまで、もはや談縦横に及んでいた〉わけですよ。これは一つの人間的な出会いだろうと思うし、たぶん彼も愉しかったろうと思うんです。だけど、やはりただそれだけのことなのでね。あくる日になれば彼は汽車に乗って、別の人に会いに行っちゃうわけでしょう。ここにあるのは、もう寂しさなんてものじゃないかもしれないね。本当の無常観みたいなものが、彼の底にある。

木村 それでこの人は案外ちゃっかりしているんですよ。各地でアメリカ文学の講義をして稼いでいる。そのお金で次から次へと旅して行くわけですね。

丸谷 そう、芭蕉の『奥の細道』に近いのね(笑)。

(次ページに続く)
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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1978年1月6日

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