書評
サンダー・L・ギルマン『病気と表象』(ありな書房)、『健康と病』(ありな書房)
「狂気」が「理性」と「非理性」の分割 にかかわる問題であり、それゆえに「狂気」の境界が歴史的社会的文化的条件のもとで動くものであることを、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』(一九七二年)は、いうところの「古典主義時代」に即して詳さに教えてくれた。「狂気」はそれ自体すでに「狂気」として存在しているわけではないといういまではあたりまえのように思えることを、しかしこれほど説得的に論証しようとした者はかつてなかった。
サンダー・L・ギルマンの二冊の著書『病気と表象』(一九八八年)と『健康と病』(一九九五年)は、フーコー以後、こうした分割を主題にした、まず間違いなくもっとも注目すべき成果である。主題は「狂気」を含む「病気」あるいは「病」である。ギルマンは、「病気」(disease)を比較的具体的な社会的枠組みとして、「病」(illness)を比較的抽象的・包括的なカテゴリーとして用いているが、両者の差異にあまり神経質になる必要はない。
「病気」ないし「病」を対象とすることで、ギルマンはフーコーよりも広い領域に踏み込んだともいえるが、そこで問題になっているのは、もっぱら「病を見る」ことであり、その意味では「分割」のテーマはいっそう方法的に限定されたわけである。一九八二年にギルマンはその題名も『狂人を見る』(Sander L. Gilman, Seeing the Insane, Ursiversity of Nebraska Press, 1982)なる書物において、西洋における「狂気」の視覚表象の歴史を概観してみせた。『狂気の歴史』の図像学的おさらいといった観のあるこの書物こそ、ギルマンのその後の仕事の出発点をなすものだが、邦訳の二冊は、この『狂人を見る』に萌きざしていた論点を、より広い歴史的地平において理論的に敷衍したものといっていい。
『病気と表象』は、セバスティアン・ブラントの『愚者の船』からエイズまで、「病を見る」ことの意味を個別的ケースごとに詳論した力作である。視による病の囲い込みといってしまえばそれまでだが、事は微妙にして複雑である。
たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチによるあの有名な性交図。ギルマンはそこに十五世紀の解剖学者モンディーノの著作と、そしてなによりもプラトンの『ティマイオス』の記述の直接的影響を認めながら、髪の長い男の姿に、まだその名で呼ばれていない梅毒を病む男のイメージを見てとり、レオナルドにおいて性交が汚染と病を示唆するものとして捉えられていたことを指摘する。しかも直立した性行為の姿勢のうちに、白鳥とレダに関する伝統的表象が重ね合わされ、男性の「内部の獣」が「レダを犯すゼウス」とみなされていたこと、さらにはその「内部の獣」が、性交図のそばに描かれた肛門とペニスのデッサンから推測されるレオナルド自身のホモセクシュアリティーにも及ぶことが論じられるのである。
父親を刺殺して精神病院に四十年以上も収容されながらさまざまな絵を描き続けた狂気の画家リチャード・ダッドが、一八五四年にものした《苦悩に荒れ狂う狂気》なる水彩画についてのギルマンの解釈は、私自身ダッドを主題に文章を書いたことがある(『見ることの逸楽』白水社、一九九五年、所収)だけに、ことのほか興味深かった。当時の精神病院は患者を鎖につないでなどいなかったにもかかわらず、ダッドは鎖につながれた半裸の男を「狂気」として表象しているのだ。伝統的イコンを「狂気」の表象に用いるこの「狂人」から、もうひとりの「狂人」、ドイツの法学者シュレーバーに説き及び、両者の「共通の象徴的基盤」としてバイロンの詩劇『マンフレッド』の言語とイメージ群の存在を指摘してみせるところなど、ギルマンの筆致はまことに鮮かである。
『病気と表象』には、ほかにもゴッホやダーウィンやリヒャルト・シュトラウスなどに関する委曲を尽くした論考が含まれているが、いずれにせよ本書は、「見ること」の結果として生み出された図像のうちに複雑に絡み合っている記号を解きほぐす知的作業の試み、いわば「見ること」を「見ること」の実践にほかならない。
『健康と病』は、「病の表象と病をめぐる文化幻想の密接なつながり」を主題にした、『病気と表象』の姉妹篇ともいうべき小著だが、しかしここにギルマンは前著では触れられていなかった視点を導入している。美と醜という視点である。健康と病という二分法は暗黙裡に美と醜の二分法と重ね合わされているというのである。
健康なものは美しい、病めるものは醜いというだけではない。美しいものは健康なものであるし、醜いものは病めるものなのだ。こうした「文化幻想」には、さらに美しいものはエロティックなもの、醜いものはエロティックでないものという系列も加えられるだろう。正確には、健康なもの―美しいもの―エロティック─善という系列と、病めるもの―醜いもの―アンチ・エロティック─悪という系列。
こうした系列が、好まれる人種/好まれない人種という人種的対立に横滑りするであろうことは見やすい道理である。ユダヤ系アメリカ人であるギルマンは、すでに前著においてシュトラウスの『サロメ』におけるユダヤ性の問題に触れていたが、ここでもカール・ローゼンクランツの『醜の美学』を採り上げながら、ユダヤ人の負性(負の記号を担った存在であること)について論じる。
だがなんといっても、美と醜にかかわる「文化幻想」が端的に見てとれるのは、エイズ予防のポスターに表象された身体においてである。ギルマンの分析によれば、そこには病める、したがって醜い身体のイメージがほとんどない。病める身体をさえ美しくエロティックに表現するという事実のうちに、ギルマンは「死にゆく(ダイイング)」という事態そのものの隠蔽を、抑圧のイメージを読みとるのである。
二冊の著書に示されたギルマンの仕事は、欧米の知的営みがどのあたりまで行っているかを端的に示す指標となるだろう。健康と病も、美と醜も、エロティックとアンチ・エロティックも、善と悪すらも、すべて曖昧模糊とした一元的泥沼のうちに解消してしまっているようにみえるこの国において、ギルマンの仕事は真摯に受けとめられるべきである。
【この書評が収録されている書籍】
サンダー・L・ギルマンの二冊の著書『病気と表象』(一九八八年)と『健康と病』(一九九五年)は、フーコー以後、こうした分割を主題にした、まず間違いなくもっとも注目すべき成果である。主題は「狂気」を含む「病気」あるいは「病」である。ギルマンは、「病気」(disease)を比較的具体的な社会的枠組みとして、「病」(illness)を比較的抽象的・包括的なカテゴリーとして用いているが、両者の差異にあまり神経質になる必要はない。
「病気」ないし「病」を対象とすることで、ギルマンはフーコーよりも広い領域に踏み込んだともいえるが、そこで問題になっているのは、もっぱら「病を見る」ことであり、その意味では「分割」のテーマはいっそう方法的に限定されたわけである。一九八二年にギルマンはその題名も『狂人を見る』(Sander L. Gilman, Seeing the Insane, Ursiversity of Nebraska Press, 1982)なる書物において、西洋における「狂気」の視覚表象の歴史を概観してみせた。『狂気の歴史』の図像学的おさらいといった観のあるこの書物こそ、ギルマンのその後の仕事の出発点をなすものだが、邦訳の二冊は、この『狂人を見る』に萌きざしていた論点を、より広い歴史的地平において理論的に敷衍したものといっていい。
『病気と表象』は、セバスティアン・ブラントの『愚者の船』からエイズまで、「病を見る」ことの意味を個別的ケースごとに詳論した力作である。視による病の囲い込みといってしまえばそれまでだが、事は微妙にして複雑である。
たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチによるあの有名な性交図。ギルマンはそこに十五世紀の解剖学者モンディーノの著作と、そしてなによりもプラトンの『ティマイオス』の記述の直接的影響を認めながら、髪の長い男の姿に、まだその名で呼ばれていない梅毒を病む男のイメージを見てとり、レオナルドにおいて性交が汚染と病を示唆するものとして捉えられていたことを指摘する。しかも直立した性行為の姿勢のうちに、白鳥とレダに関する伝統的表象が重ね合わされ、男性の「内部の獣」が「レダを犯すゼウス」とみなされていたこと、さらにはその「内部の獣」が、性交図のそばに描かれた肛門とペニスのデッサンから推測されるレオナルド自身のホモセクシュアリティーにも及ぶことが論じられるのである。
父親を刺殺して精神病院に四十年以上も収容されながらさまざまな絵を描き続けた狂気の画家リチャード・ダッドが、一八五四年にものした《苦悩に荒れ狂う狂気》なる水彩画についてのギルマンの解釈は、私自身ダッドを主題に文章を書いたことがある(『見ることの逸楽』白水社、一九九五年、所収)だけに、ことのほか興味深かった。当時の精神病院は患者を鎖につないでなどいなかったにもかかわらず、ダッドは鎖につながれた半裸の男を「狂気」として表象しているのだ。伝統的イコンを「狂気」の表象に用いるこの「狂人」から、もうひとりの「狂人」、ドイツの法学者シュレーバーに説き及び、両者の「共通の象徴的基盤」としてバイロンの詩劇『マンフレッド』の言語とイメージ群の存在を指摘してみせるところなど、ギルマンの筆致はまことに鮮かである。
『病気と表象』には、ほかにもゴッホやダーウィンやリヒャルト・シュトラウスなどに関する委曲を尽くした論考が含まれているが、いずれにせよ本書は、「見ること」の結果として生み出された図像のうちに複雑に絡み合っている記号を解きほぐす知的作業の試み、いわば「見ること」を「見ること」の実践にほかならない。
『健康と病』は、「病の表象と病をめぐる文化幻想の密接なつながり」を主題にした、『病気と表象』の姉妹篇ともいうべき小著だが、しかしここにギルマンは前著では触れられていなかった視点を導入している。美と醜という視点である。健康と病という二分法は暗黙裡に美と醜の二分法と重ね合わされているというのである。
健康なものは美しい、病めるものは醜いというだけではない。美しいものは健康なものであるし、醜いものは病めるものなのだ。こうした「文化幻想」には、さらに美しいものはエロティックなもの、醜いものはエロティックでないものという系列も加えられるだろう。正確には、健康なもの―美しいもの―エロティック─善という系列と、病めるもの―醜いもの―アンチ・エロティック─悪という系列。
こうした系列が、好まれる人種/好まれない人種という人種的対立に横滑りするであろうことは見やすい道理である。ユダヤ系アメリカ人であるギルマンは、すでに前著においてシュトラウスの『サロメ』におけるユダヤ性の問題に触れていたが、ここでもカール・ローゼンクランツの『醜の美学』を採り上げながら、ユダヤ人の負性(負の記号を担った存在であること)について論じる。
だがなんといっても、美と醜にかかわる「文化幻想」が端的に見てとれるのは、エイズ予防のポスターに表象された身体においてである。ギルマンの分析によれば、そこには病める、したがって醜い身体のイメージがほとんどない。病める身体をさえ美しくエロティックに表現するという事実のうちに、ギルマンは「死にゆく(ダイイング)」という事態そのものの隠蔽を、抑圧のイメージを読みとるのである。
二冊の著書に示されたギルマンの仕事は、欧米の知的営みがどのあたりまで行っているかを端的に示す指標となるだろう。健康と病も、美と醜も、エロティックとアンチ・エロティックも、善と悪すらも、すべて曖昧模糊とした一元的泥沼のうちに解消してしまっているようにみえるこの国において、ギルマンの仕事は真摯に受けとめられるべきである。
【この書評が収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする