書評

『パリスの審判―美と欲望のアルケオロジー』(ありな書房)

  • 2020/04/24
パリスの審判―美と欲望のアルケオロジー / ユベール・ダミッシュ
パリスの審判―美と欲望のアルケオロジー
  • 著者:ユベール・ダミッシュ
  • 翻訳:松岡 新一郎
  • 出版社:ありな書房
  • 装丁:単行本(374ページ)
  • ISBN-10:4756698530
  • ISBN-13:978-4756698537
内容紹介:
古代神話を彩る女神たちの魅惑と贈与。知・力・美の対決と審判。黄金の林檎のもたらす愉悦と滅亡。古代石棺浮き彫りからラファエロ、クラナハ、ルーベンスを経てマネのタブローに至る、美という芸術的概念のパレルゴンを解く。

美学と美術史とのありうべき結合の試み

ニーチェ流にいえば、「女を捜せ」、これがユベール・ダミッシュ『パリスの審判』(一九九二、石井朗・松岡新一郎訳、ありな書房、一九九八)の通奏低音である。フロイトとカントとの対比から結果する根本命題だ。

フロイトは、精神分析が美については発言権がないことを認めながら、しかし一方で、美は性感覚の領域に由来するにちがいないこと、しかも性的な興奮と美的な感動との間には隔たりがあることを主張した。つまり、性器そのものは刺戟として働くけれども、美はある種の第二次性徴に備わる性質のように思われるというのである。

カントは、美の無関心性を説いた。われわれが美と判断する対象にわれわれが欲望を抱くことはない。快楽は主観だけの問題であり、対象の実在すら括弧に入れられるという。美の根底に性を据えるフロイトとは、まったく逆の立場のようにも見える。しかしそのカントもまた、快楽の原理として「生の感情」に言及しているところからすれば、彼も「あのことしか考えていなかった」とはいえないだろうか。「あのこと」とは、フランス語の「サ」、精神分析でいう「エス」、すなわち人間の欲動の中心のことである。

フロイトとカントとの相違と類似性、これこそ美学の根本問題であろう。「女を捜せ」。「美しい女性」という判断こそが問題なのだ。

「パリスの審判」が、こうしておのずから主題となるわけである。不和の女神エリス(ディスコルディア)によって神々の宴の席に投げこまれた黄金の林檎には、「もっとも美しい女神に」という言葉が添えられていた。妍(けん)をきそうヘラとアテナとアフロディテのうちのいずれかひとりを選ぶ仕事は、トロイアの羊飼いパリスに任された。そしてパリスは、アフロディテを選んだ。自分を選ぶなら、この世でもっとも美しい女性を与えるとのアフロディテの約束を採ったのである。もっとも美しい女神による、もっとも美しい女性の約束。実際、パリスはこうしてこの世でもっとも美しい女性、ヘレネーを得た。これがトロイア戦争の引き金になった。

「パリスの審判」の物語は、カントとフロイトを両極とするところの美的判断の問題圏の文字どおりの絵解きのようなものである。この物語に取り組むことは、美学の根本問題に取り組むことにほかなるまい。美・快楽・欲望の関係をどう考えるか。ユベール・ダミッシュは、この美学の根本問題を引き受けようとする。

たんに思弁の対象としただけではない。本書の面目は、こうした美学的思弁が、きわめて具体的な美術史上の問題と不即不離のかたちで展開されているところにある。

出発点は、マネの《草上の昼食》。一八六三年のサロンに出品して落選し、同年の「落選者展」でスキャンダルを引き起こした例の作品である。二人の(衣服をまとった)男たちと二人の(一方は全裸の、他方は下着の)女たち。人々は不快な衝撃を受けたらしい。なぜだろうか。

ダミッシュは、これがラファエッロの作品に基づいて制作されたと伝えられる、マルカントーニオ・ライモンディの版画《パリスの審判》にまでさかのぼることができることを指摘し、そしてライモンディの版画を基点とする「パリスの審判」の図像の「変容」を追跡する。カラッチ、クラナハ、ルーベンス、そしてピカソにいたるまで、おびただしい数の図像が採り上げられる。ピカソは、マネの《草上の昼食》に関して二百枚のデッサンと二十五点の絵画、数枚のリノリウム版画、厚紙による記念碑的彫刻の模型を産みだしているという。西洋美術史にかくも執拗に根を張った「パリスの審判」のテーマをめぐって、ダミッシュの筆は自在に走る。

特異な図像解釈学(イコノロジー)的研究といってもいい。しかし、たんなる美術史的研究ではない。繰り返すが、美学の根本的な問いに支えられて、論述は進められているからだ。美学と美術史とのありうべき結合の試みということもできる。ちょっと羨ましくなるような力作だ。思弁をないがしろにし、歴史的実証のうちに逃げようとするわが国の美術史研究の傾向からは、まず期待できない類いの仕事である。

もっとも、思弁の部分と美術史的論述の部分が本当にうまく噛み合っているかどうかは、意見のわかれるところであろう。しかしいずれにせよ、ダミッシュの仕事は大いに評価されなければならない。

翻訳は、二、三の訳語については「おやっ」と思うところもないではないが、おおむねこなれていて読みやすい。

【この書評が収録されている書籍】
イコノクリティック―審美渉猟 / 谷川 渥
イコノクリティック―審美渉猟
  • 著者:谷川 渥
  • 出版社:北宋社
  • 装丁:単行本(297ページ)
  • ISBN-10:489463032X
  • ISBN-13:978-4894630321
内容紹介:
美学と批評を架橋すること―絵画、彫刻、写真、映画、詩、小説など、多様な“美的表象”を渉猟する美学者の、アクチュアルな批評論集。美と知の地平を博捜するリヴレスク・バロック第二弾。フランス文学者・鹿島茂との“書痴”対談収録。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

パリスの審判―美と欲望のアルケオロジー / ユベール・ダミッシュ
パリスの審判―美と欲望のアルケオロジー
  • 著者:ユベール・ダミッシュ
  • 翻訳:松岡 新一郎
  • 出版社:ありな書房
  • 装丁:単行本(374ページ)
  • ISBN-10:4756698530
  • ISBN-13:978-4756698537
内容紹介:
古代神話を彩る女神たちの魅惑と贈与。知・力・美の対決と審判。黄金の林檎のもたらす愉悦と滅亡。古代石棺浮き彫りからラファエロ、クラナハ、ルーベンスを経てマネのタブローに至る、美という芸術的概念のパレルゴンを解く。

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図書新聞

図書新聞 1998年8月29日

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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