読書日記
大平健『やさしさの精神病理』(岩波書店)、中村うさぎ『うさぎの行きあたりばったり人生』(マガジンハウス)、アーウィン・ショー『エルサレムのメダル』ほか
傷ついた心
もうすぐ四十、押しも押されもせぬ中年となった私は、若者に腹の立つことがしょっちゅうだ。電車の中で、老人がまん前に来ても、なぜ席を譲らないか。女の子の言い分を、大平健著『やさしさの精神病理』(岩波新書)で読んだときは、血圧が上がりそうになった。
「立ったげようかなって思ったけど」、年寄り扱いしたら、オジイさんは気を悪くするかも知れない。まわりの大人にとがめられるのも嫌で、寝たフリをした。「空けてくれって言ったら(その時に)空けたげればいいんだから」。
屁理屈も極まれりと思ったが、精神科医として、多くの若者に接する著者によると、「傷つく」ことに敏感な現代では、譲るより譲らないのが、やさしさであるらしい。うーむ。
本そのものは、わかりやすく書かれているが、それでもやっぱり、彼らの言い分には同調できない。たしかに席を譲ろうとすると、とたんに不機嫌になる人はいる。特に男性。が、十六歳の女子高生と六十歳の男性とだったら、誰が見ても六十歳の方が老いているのであって、怒る方がおかしい。不機嫌になるとしたら、年寄り扱いされたからではなく、自分が年寄りであることそのものが、気にくわないのだ。そういう人の心の内まで責任持つ必要はない、というのが私の考え。
立ってみて「いや、結構」と言われたら、
「あ、そう」
と座り直せばいいだけの話だ。「好意が無にされた」「恥をかかされた」と、おおげさに受け取ることもない。私も老紳士に青筋立てて拒絶されたことがあるが、
「失礼、では」
と、しらっとそのまま座っていった。「やさしい」若者からすれば、繊細さのかけらも持ち合わせない、ふてぶてしいおばさんてことになるだろう。
私と同世代の中村うさぎさんは『うさぎの行きあたりばったり人生』(マガジンハウス)で、買い物依存症を治すため、病院に行ったときのことを書いている。そこのグループ・セラピーでは、患者の皆さん、語る語る。アダルト・チルドレンなるレッテルを付与してもらうや、俄然いきおいづいて「私の物語」を語りはじめる。
アダルト・チルドレンは、私の記憶では、一九九〇年代半ばにどっと広まった言葉で、機能不全の家族の中で育ち、何らかの生きづらさを抱えた成人のこと。涙、涙のヒストリーが語られる中、著者は疑問を抱く。皆、そんなに傷ついてるわけ?
この人の分析はいつも鋭いが、この本では時代との関わりに向けられる。一九九〇年代後半は「癒し」の時代だった。日本じゅうの皆が傷つき疲れ果てているかのように、癒しを求めた。でも、それって変じゃない?
問題はたぶん、モチベーションのなさ。生きる動機がはっきりしないから、徒労感と虚無感に苛(さいな)まれるのだ、と。
一九八〇年に大学生となった私は、七〇年安保もとうに終わったキャンパスに立ったとき、同じことを感じた。私たちには、戦争のような、それぞれの生きる目標を有無を言わせずふっとばしてしまう、共通体験がない。そうした圧倒的体験を持つ世代から、「甘えている」「苦労を知らない」といった、抗弁しようのない批判を受けつつ、個々人が課題を設定し、それに向かって生きていくしかないのだ、と。
「傷ついた自分」という物語にしがみつく人が多いのも、アイデンティティを、他にみつけられないからではないか。
「傷」という言葉が、印象的に出てくるのは、アーウィン・ショーの『エルサレムのメダル』という短編(小笠原豊樹訳『緑色の裸婦』草思社に収録)。若き空軍兵士が、駐屯先の中東の町で、ユダヤ人女性と知り合う。口紅といいドレスといい、きれいに梳いた髪といい、お小遣いをたっぷり貰いダンスパーティーに出かけていくアメリカの娘たちと何ら変わりはない。
その女性が実はベルリンから逃れてきたばかりで、拷問、密航、肉親の悲惨な死などをくぐり抜け、自分の前にいることを知る。「心の傷が人の目に全く見えないというのは、なんとすばらしいことであり、しかもなんと恐ろしいことなのだろう」。
『夏服を着た女たち』(講談社文庫)のような都会的な小説で知られる彼は、一方で「私は時代の産物である」と述べ、「暴力」をテーマに据えてきた。政治の、国家の、人間心理の、教条主義の暴力。マッカーシズムを正面から描き、亡命同様にヨーロッパに移り住んだのちは、ベトナム戦争終結後まで、アメリカに居を構えようとしなかったという。
同盟国の側で、戦争、復興、反体制運動と歴史とともにあり続け、旧西ドイツの「批判的年代記作家(クロニスト)」と呼ばれるハインリヒ・ベル、青木順三編訳『ハインリヒ・ベル短篇集』(岩波文庫)は、はじめの一編「旅人ヨ、スパルタノ地二赴カバ、彼ノ地ノ人二……」を読んだときから、
「これって、あんまり残酷だよなあ」
と胸がしめつけられてしまった。ギムナジウム(高等学校)を出たばかりで、まだ何が起きているのかもよくわからないまま、死んでいかねばならぬとは。幼な過ぎる、むご過ぎる。
この本におさめられているのは、戦中と戦後の廃嘘に生きる人々を描いたものが中心だ。前線の男たちも、銃後の女たちも、心身にいかに深い傷を負ったかが、平和な時代にあってなお、せつせつと伝わってくる。
ベルリンの壁が崩壊した一九八九年は、東欧諸国では、ときに流血をともないながら指導者が交代した年だった。杉山隆男著『きのうの祖国』(ちくま文庫)は、市民へのインタビューから、歴史の激動を描き出したノンフィクション。
執筆を終えても、人々の顔が、瞼(まぶた)の奥から消えないという。インタビューを終えて去る著者の車を、窓の内側から、泣きはらした眼で、黙ってじっと見つめていた、二十二歳の未亡人。夫は軍と民衆がぶつかり合う現場にたまたま居合わせ、流れ弾に当たって帰らぬ人となった。
「歴史や民族とのせめぎあいの中で生きつづけなければならない彼らのような人たちがいることに指先の塵ほども気づかなかった、自分の無知さ」を、著者は責める。秘密警察の隊員と兵士とが激しく撃ち合う市街戦のようすを、日本のわれわれは、衛星放送を通し、ソファでくつろぎながら目にすることすらできた。でも、それで何を知っていたというのか。
バブルで浮かれていた、あの同じ頃、人と人が肉体のみならず魂までも傷つけ合う戦いがあった。そのことを忘れないための本ともいえる。
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