コラム
物語る劇作家の根源の「淋しさ」 井上ひさしを悼む
井上ひさしを悼む
近代の文学は散文の時代にあった。小説と伝記とノンフィクションが、物語を語る主役になった。脇に追われた演劇は、多彩な奇手を講じて不遇を凌(しの)いだ。チェホフはあざとい物語を書きながら、それを繊細なせりふの囁(ささや)きの裏側に隠した。エドモン・ロスタンは極端に芝居がかった物語を作って、その嘘らしさを観客の楽しみに供した。ハロルド・ピンターは物語の断片だけを見せて、世界の多義性を表現することを演劇の役割とした。より幼稚な作者は物語をそっくり諦めて、演劇は文学ではないと開き直った。役者の肉体運動だけを舞台で誇示したり、劇に偶然性を導入すると称して観客を舞台にあげたりした。井上ひさしが世に出たのはこの難局のさなかだったが、彼は特別に芝居好きの青年であると同時に、心の底から吐露せずにはいられない豊かすぎる物語の持ち主だった。
この時代のこういう作者が自分の方法に意識的になるのは当然であって、彼はなぜ物語を戯曲で書くのかを鋭く自分に問う作者になった。とはいえ井上は観念的な前衛派ではなかったから、選んだ方法は特別に人目を惹く奇手邪道ではなかった。むしろ『父と暮せば』(新潮文庫)の後記でいう劇場本来の持つ「機知」、劇中劇や一人芝居、一人二役や「二人一役」など、伝統的な技法を意識的に、いささか過剰なまでに駆使して見せることであった。
劇場の機知とはいいかえれば、そこには舞台があり役者という目に見える存在がいて、それが観客には見えない物語を間接に伝えるという仕掛けのことだろう。小説ではせりふも地の文章も同じ言葉だが、劇場では地の文章は役者と舞台装置という現実物に置き換えられる。そのことで観客の想像力はいやがうえにも刺激され、主として見えない物語を語るせりふは、逆に言葉としての力を増すのである。
私が井上戯曲の最高傑作だと思うのは『化粧』(集英社文庫)だが、ここでは典型的に、一人の女優と舞台上の音響という現実物が物語の悲劇性を深めている。物語はどさ回りの女座長が楽屋で過去を語り、やがて思いがけなく、幼くして捨てた我が子の晴れ姿に再会するという悲話である。通俗性は覆うべくもないが彼女は通俗劇の女優であり、現に子別れと再会の芝居を上演中という設定だから、彼女の型にはまった語り口は逆に物語の迫真力を強めてくれる。しかも幕切れでこの芝居小屋の取り壊しの効果音が響き、じつは彼女の一座はすでに存在せず、悲話のすべてが心破れた女の幻想だったという大逆転が訪れて幕が降りる。
ここでは物語は二重の虚構の括弧に入れられ、現実との対応関係を消されることによって、物語として純粋化されることになった。舞台上の女が通俗的なまでに具象的であればあるほど、女の悲しみは抽象的な透明さを帯びて、どこにもないがどこにでもあると人に感じさせる、巧妙な説得の仕掛けである。
一般に井上の好む劇中劇も言葉遊びも、さらに晩年に増える劇中歌も、シアトリカルな効果はドラマの内容と対立するように使われることが多い。『組曲虐殺』(集英社)のような深刻な作品でも、舞台には歌や笑劇やピアノ演奏まで氾濫する一方、小林多喜二虐殺の物語は数行のせりふで描かれて終わる。一見、背後の物語を隠すかに見せて、観客の意識を物語に鋭敏にさせる高等戦術だといえるだろう。
それにしてもこの作家の物語への執心、人の生涯の曲折への愛着は尋常ではない。ゴシップを取材された人名だけでも、平賀源内、道元、乃木大将、一茶、漱石、芭蕉、樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治、太宰治、宮本武蔵と枚挙にいとまがない。井上が生涯、政治的主題を愛したのも、もちろん思想信条もあっただろうが、政治はつねに物語的だから彼を魅了したと疑いたくなるほどである。
古来、物語は孤独の産物であり、人恋しさの表現だとは広く知られている。ゴシップを猿の毛づくろいと同等視して、人恋しさの原初的な表現だと考える人類学者もいる。井上の孤独については、彼の幼時体験を含めた履歴的事情を挙げるむきもあろうが、困難を承知であれほど物語を書いた作家にとって、記憶はより深い孤独を自覚する端緒にすぎなかったはずである。それが何であるか、秘密は初期作品『吾輩は漱石である』(『井上ひさし全芝居』その三)に洩らされていると、私は密かに推察している。
登場する漱石その人はほとんど言葉を発せず、たぶん病床の彼の夢のなかで、漱石の人物を思わせる教師たちが劇中劇を演じる作品だが、印象的なのはそこで執拗に連発される「淋しい」という言葉である。無言の漱石がそのすべてを自分で叫んでいるように見えるが、もちろんこれは漱石の『こころ』の主人公が口にするあの「淋しさ」である。行動も愛も共生の努力も救いとならぬ、生きる人間の根源的な寂寥感である。私の見るところ、日本最初の実在の自覚を語った切実な言葉だが、井上はこれに共感して、愚直なほど自作で反努する感受性を持つ作家でもあったのである。
【このコラムが収録されている書籍】
ALL REVIEWSをフォローする

































