書評
『ニンゲン御破産』(白水社)
円環をなす大きな時間枠の中に、時系列を無視したエピソードを暗転とスライドを多用しながら断片的に提示し、それら断片同士は互いに入れ子のような関係を持つというメタフィクショナルな構造。一見些末な小ネタ的エピソードや設定を、のちに本筋に回収し、有機的に活かす高度なテクニック。真と贋、実と虚、男と女、正気と狂気など、相反する記号の反転が生む認識の揺らぎ。身体障害者や精神を病んだ人も含め社会の中には色んな人間がいて、差別観も含め色んな考え方があり、それを隠す必要はないという、非常にまっとうであるにもかかわらず大抵の表現者が持ち得ない勇気ある姿勢。
『ニンゲン御破産』は、そうした松尾スズキ戯曲の骨法の全てを投入した傑作戯曲だ。時は幕末。家も侍の地位も捨てた実之介は、江戸で狂言作者を志している。ところが、鶴屋南北や河竹黙阿弥からは黙殺され、やがて自らの人生を芝居に仕立てることにのめり込む。故郷の藩を出奔したいきさつ、その成り行きの中、実之介と運命を共にするようになったマタギの黒太郎と灰次の兄弟が巻き込まれる倒幕という時代の奔流。侍と平民、男と女、現実と虚構、過去と現在、歌舞伎と現代演劇、様々な垣根を取っ払い御破産にしていくこの芝居はまた、これまでの松尾スズキを御破産にしてしまう試みでもある。
念願の劇場も手に入れたのに、いざ作品を書こうとしても書くことがないのに気づく実之介。虚構の中でしか生きられず、やがて狂気の世界の住人となる実之介。劇中で南北が示唆するように、時に虚構は現実に追いつかれ、追い越され、そして敗れ去る。二幕の終わりに実之介が放つ「からっぽだあ!」という台詞は、劇作家・松尾スズキにとっても切実な叫びだろう。桜田門外の変という現実を虚構に仕立て上げる、一世一代の野外劇を打った後も、南北や黙阿弥に褒めてもらわないと成功の実感すら得られない実之介は、松尾スズキの分身なのだろう。
これは私小説ならぬ私戯曲だ。これまでの松尾戯曲の骨法の全てのみならず、生身の自分までをもさらけ出し、御破産にする。今や、劇作家としては野田秀樹に並ぶほどのポジションにありながら、松尾スズキは自己破産を目論む。自作を解体せんと試みる。その蛮勇、その破天荒、その純情に、わたしは深い敬意を抱かずにはいられない。「終わったってこたあ、始められるってことでないの。それはある意味、素敵なことでないの」。幕あけに置かれたこの台詞のような、出し尽くした末の“からっぽ”から始まる、今後の素敵滅法界の出現を示唆する、これはとても重要な戯曲なのである。
【この書評が収録されている書籍】
『ニンゲン御破産』は、そうした松尾スズキ戯曲の骨法の全てを投入した傑作戯曲だ。時は幕末。家も侍の地位も捨てた実之介は、江戸で狂言作者を志している。ところが、鶴屋南北や河竹黙阿弥からは黙殺され、やがて自らの人生を芝居に仕立てることにのめり込む。故郷の藩を出奔したいきさつ、その成り行きの中、実之介と運命を共にするようになったマタギの黒太郎と灰次の兄弟が巻き込まれる倒幕という時代の奔流。侍と平民、男と女、現実と虚構、過去と現在、歌舞伎と現代演劇、様々な垣根を取っ払い御破産にしていくこの芝居はまた、これまでの松尾スズキを御破産にしてしまう試みでもある。
念願の劇場も手に入れたのに、いざ作品を書こうとしても書くことがないのに気づく実之介。虚構の中でしか生きられず、やがて狂気の世界の住人となる実之介。劇中で南北が示唆するように、時に虚構は現実に追いつかれ、追い越され、そして敗れ去る。二幕の終わりに実之介が放つ「からっぽだあ!」という台詞は、劇作家・松尾スズキにとっても切実な叫びだろう。桜田門外の変という現実を虚構に仕立て上げる、一世一代の野外劇を打った後も、南北や黙阿弥に褒めてもらわないと成功の実感すら得られない実之介は、松尾スズキの分身なのだろう。
これは私小説ならぬ私戯曲だ。これまでの松尾戯曲の骨法の全てのみならず、生身の自分までをもさらけ出し、御破産にする。今や、劇作家としては野田秀樹に並ぶほどのポジションにありながら、松尾スズキは自己破産を目論む。自作を解体せんと試みる。その蛮勇、その破天荒、その純情に、わたしは深い敬意を抱かずにはいられない。「終わったってこたあ、始められるってことでないの。それはある意味、素敵なことでないの」。幕あけに置かれたこの台詞のような、出し尽くした末の“からっぽ”から始まる、今後の素敵滅法界の出現を示唆する、これはとても重要な戯曲なのである。
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初出メディア

Invitation(終刊) 2003年5月号
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