対談・鼎談

『西郷隆盛』海音寺潮五郎、『翔ぶが如く』司馬遼太郎|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2017/07/05

が、川路のこのいくらか辛い評価ですらも、薩摩人の自己愛のあらわれにすぎないのではないか、と思いたくなるくらい、戊辰戦争以後の西郷は愚かしく感じられる。その周囲にいる人々は、桐野利秋が典型的ですけど、日に一丁字なき徒輩で、低い精神主義に溺れているにすぎない。そしてそれをよく知っているのが司馬遼太郎自身なんですね。自分が下した、明治維新以前の西郷への高い評価と、以後の彼に対する極度に低い評価との間で、困り抜きながら司馬さんはこの七冊の本を書いた。この本の最大の読みどころは、その司馬さんの困り方です(笑)。

司馬さんには海音寺潮五郎のお国自慢はもちろんなかった。また海音寺的戦前的儒教主義、ないし倫理主義はなかった。彼はそういうものには目を晦(くら)まされずに、日本の転換期としての十年間の真っ只中に、西郷という近代日本史最大の伝説を置いてそれと堂々と対決をした。その結果、できあがったものは傑作とは絶対にいいにくい、歪(ゆが)みの多い本です。けれども、西郷や大久保という人物を通して、われわれの文明の根本的な性格を探ろうとしている、その誠実な態度は非常に感銘が深い。それは重量挙げのチャンピオンが晴れの競技会で、新しい記録に挑もうとして渾身(こんしん)の力を振るっているような見ものであります。とすれば新記録が樹立されたかどうかはそれほど大きな問題ではないでしょう(笑)。

山崎 わたくしが非常におもしろいと思ったのは、明治の志士の中には、ある一つの強い定見をもって最初から最後まで一貫して行動した人物は、一人もいないということですね。分けても典型的なのは西郷その人です。彼が最初は島津藩士として、諸藩の間で島津藩のために行動している時点から、やがて日本という一つの国家を意識の中に置いて、ほんとの意味の国際社会の中で行動しはじめるまで、その意識の変化というのは、いってみればきわめて場あたり的なんですね(笑)。

倒幕という思想が出てくるのはきわめて偶然的な事情によるようです。はじめ尊皇攘夷といっているうちに、井伊大老があの安政の大弾圧を行なう。このことが多くの人々に幕府の可能性を疑わしめた最初のきっかけになった。そのあと次第に幕府について絶望が深まっていくのであって、最初から幕府を倒して、天皇支配の統一国家にしようと考えていた人もいないし、ましてや廃藩置県までやろうと考えていた人はだれもいないわけですね。

そこでどの個人の軌跡をとってみても、尊王から公武合体、そこから倒幕へという間には、不思議な、論理でない、意志の移行がある。また攘夷から開国へという、まったく正反対の決意も、じつはだれも論理的に考えたのでなくて、成行きで生まれてくる。また、西郷は最初、島津久光によって沖永良部島に流されていて、久光に対して当然、恨みと怒りをもっているはずなんだけれども、一方、例の禁門の変で功績をあげ、久光から刀と陣羽織をもらうと、「これは永代の名誉である」と手紙に書いたりします。そのあたりではまだ久光個人に対してすら、完全な絶望とか、怒りというものはないわけですね。そういう段階的な論理の発展というのは、褒め言葉を使っていえば自然科学的な試行錯誤なんですね(笑)。

丸谷 うまいこというね(笑)。

山崎 やってみて悪ければまた考える、というやり方で一貫して明治維新はおこなわれた。ですからそれは西洋流の革命とはまったく性質を異にしたものだと考えていいですね。

西洋流の革命というのは、マルクス主義の革命もそうですし、ナポレオンの革命ですらそうですけれども、最初にイデオロギーがあり、一つの政体に対する青写真というものがあった。それについては動かない信念があったから、革命家は敗けたら敗けっきり、勝てば官軍です。

ところが日本の場合、寄り合って相談しながらあっちへ行こう、こっちへ行こうといってるうちにだんだんと現状が成り立った。そういう意味ではわたくしは西洋流の革命が宗教的革命であるのに対して、日本の革命は自然科学的な革命だと思うんです。しかし、これを裏返していうと、ある短い時点の中では全員が裏切り者になるという性質がある。西郷自身も島津久光から見ればたいへんな裏切り者なんですね。そして、西郷はやがて明治維新に対する裏切り者にもならざるを得ない。そういう必然性がすでに明治維新を用意する運動の中にあったという印象をもちました。

木村 海音寺さんの本は史伝ということですが、史伝というのは一体何でしょうか。つまり歴史叙述そのものとは違うんですね。ここでは史料が生のままで使われていて、史料そのものに対する価値判断とか、一つの史観にもとついて史料を選択し、駆使するという態度の点では、必ずしも積極的ではない。史料はたとえ全部集めても、事柄の一部とか表面とかを、かなり混沌とした形で表わすだけのはずですが、ここではともかく史料そのものを生かそうという形で、全体が構成されているわけですね。

ですから大きな川の表面にある細かい渦(うず)は、史料を通してじつによく書いてある。すさまじい執念によって書かれた畢生の書という感じで、心を打たれます。しかし川そのものの大きな流れ方がどうなっていたのか、また川の底流ともいうべき時代の雰囲気がどうであったのかは、はっきりと書かれていない。

西郷隆盛に対する評価が海音寺さんと司馬さんでは食い違っていますね。司馬さんは維新前の西郷と維新後の西郷とを、はっきり分けておられる。維新前の西郷は幕府を倒すということに大きな能力を発揮した。しかし維新後の西郷は、近代国家についての構想を何らもってなかったと書いている。それに対して海音寺さんは、いや、維新前と維新後でまるで人が変ってしまうことなどあろうはずがないといっている。むしろ明治維新後、西郷の理想はいっそう実現さるべきはずだったというわけです。

『翔ぶが如く』には時として司馬さん一流のキメつけ方があって、山県有朋は模倣者にすぎない、であるとか、西郷従道(つぐみち)は自分は結局賢くないといつも思いこんでいたとか、その従道から見ても桐野はアホウの塊りだったとか(笑)、役柄がはっきりしている。そのため全体がドラマチックな叙述で、読みやすかったですね。「翔ぶが如く」というのは、薩摩隼人の、「泣こよっかひっ翔べ(泣いているよりは飛んでみろ)」から来ています。薩摩人こそ日本人の原型であり、他は日本人に似た連中である(笑)。そういう優越感を薩摩の人がもち続けてきた。その独立薩摩圏の文化というものを、司馬さんは書きたかったんじゃないかという気がしました。

丸谷 海音寺さんは、明治新政府の重大な欠点として、彼らは皇室に対する尊崇の念はあったけれども、それ以外のあらゆる徳目を欠いていて、学問ある道義の士がいなかった、といっているんです。しかし、それは明治維新という革命の性格からいって、ごく必然的なことだったろうと思うんですね。というのは、要するに下級武士の起こした叛乱であって、本質的に彼らは無教養であり、学問がなかったわけですよ。それは西郷が島で読んだ本を見ればすぐにわかる。

(次ページに続く)
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