対談・鼎談

『西郷隆盛』海音寺潮五郎、『翔ぶが如く』司馬遼太郎|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談

  • 2017/07/05

山崎 しかも明治維新の動機となったものの中で、すべての人々が明確に意識していた条件というのは、要するに四はいの黒船がやってきたということだけであって、それ以外に何もないわけです。たとえば世の中に貧乏人が増えた、みんな食うに困っている、世の中を変えなければいけないという程度の認識すら、当時の革命家のだれにもなかった。ましてそれが幕府のせいであるなどと考える人は一人もいなかった。幕藩体制がよくないものだと考えた人は皆無だったにもかかわらず、そこへ突然外圧がきた。もっともわたくしは、かつて外圧によらざる純内発的な革命というものは存在しなかったと固く信じているんです。唯一の例外はキューバですが、あとは全部、直接に戦争の結果です。だからその限りでは、明治維新も例外ではないと思う。ただし、外圧しか意識されていなかった革命というのはこれは世界に例がない。これは何度でも強調しておいてよいと思う。

そこへもってきて、当時の日本は、独特の社会構造によって、うまく運営されている一種の理想社会だったんですね。このことは、現代のアメリカの学者も認めていて、江戸時代の見直しが起こっているくらいです。

そこへ外部の論理が軍艦に乗ってやってきたのですが、これと内部の論理はまったくかみ合うところがないわけです。早い話が、日本は権力と権威が完全に二分されていた。
権力は幕府にあるけれども、権威は依然として朝廷にあった。この矛盾がそもそも開国問題をむずかしくした大きな原因ですね。つまり勅許をとらなければならないという奇妙なことがきっかけになって、外交の小さな失敗が大きな失敗に拡大される。あとはもう雪ダルマですね。そういう日本の革命の状況の奇怪さがすべての問題のもとであって、西郷のような人物が出てきた理由もそこにあったと思うし、西郷の失敗もそこからきていると思う。

木村 この二つの本ではどちらも、西郷、大久保を革命家としているわけですね。しかし本当に革命家だったかということも、考える必要があると思うんですよ。というのは、明治維新によって一体どれだけ国家の本質が変ったのか、明治四年に廃藩置県があって、それによって近代的な行政機構ができたわけです。そのときに反対して叛乱を起こした鹿児島だけが、事実上、独立国の体面を保ったけれども、あとはいっせいに廃藩置県にならった。ということはすでにもう幕末の時代から、事実上の国民国家が形づくられていたといってもいい。大名の独立性は初めから薄かったんですね。参勤交代によって大名が二年に一度江戸にやってきて、そこに住んだ。つまり、中央とのコンタクトなしには地方行政ができない状態に、すでになっていた。ですから江戸時代に国民国家、ないしは中央集権国家の実体を認めるべきだと思うんです。

そういう実質があったからこそ、司馬さんがおっしゃっているように明治十年、ないし明治二十年の段階で、すでに日本の近代化は成し遂げられたわけです。

ということは、明治維新はそれによって近代国民国家をつくり出したというより、すでに事実上できていた国民国家の体制を、西洋的なものへとまさに衣替えしたのであって、実質的な革命ではなかったと思うんですね。だからこそ、さっき山崎さんがおっしゃったように、定見もなくくるくる変っても、明治維新は実現できたんだと思う。

だから当時の、西郷隆盛といったひとりの人間の思想像をたしかめるのは、なかなかむずかしい。そこで二人とも苦労しておられますが、もともとたしかめるということそれ自体が無理なんですね。ただ、そういういい方をすると海音寺さんに叱られるわけですよね。近頃の知識人は一知半解の半端な知識しかもってなくて新しいことをいいたがる、と(笑)。

丸谷 もちろん木村さん叱られるでしょう。私も叱られるでしょう。山崎さんも叱られると思うんだ(笑)。これはしようがない。だってこの本は、はっきりいって司馬遼太郎さんを叱るために書いたようなものですからね。愛弟子である司馬さんがこれだけページ数を費してお説教されるんだから、われわれごときが叱られるのはやむを得ないんですよ(笑)。

山崎 江戸時代は厳密な意味における封建社会でも、官僚帝国でもなかったと思うんです。日本は非常に曖昧な社会構造をもっているのであって、それをわたくしは「モザイク社会」と呼んでいるんですけれども、大きなピラミッドの中に小さなピラミッドがいくつもあって、それぞれ独立性がかなり強く認められている。それが藩です。

たとえば長州が勝手にイギリスと戦争をして敗ける。すると、われわれは幕府の攘夷方針に則って戦争したんだから、賠償金の半分は幕府が払えと、長州はこういうわけです(笑)。幕府のほうはこちらはそんな戦争しろといった覚えがない。長州が勝手に戦争したんだからあっちから賠償金をもらってほしいという。これじゃ外国のほうもずいぶん困ったろうと思う。

ところがいまでもこれに似たことをやってるわけです。総理大臣がアメリカの代表とぶつかる。「通産省がいうことききませんので」。通産省のほうは、「いや、大蔵省が……」ってなことをやってる。

木村 要するになぜ、薩長が官軍になったかというと、あの人たちは野蛮だったんですね(笑)。

丸谷 そうなんですよ。文化程度が低かったからだと思う。江戸の武士は非常に洗練されていた部分と、全然だめな部分と、二つに分かれちゃっていたわけです。たとえば栗本鋤雲(じょうん)や小栗上野介など識見が高く、学問もできた人が上のほうにいた。一方、旗本の下のほうになると平仮名も書けなかった(笑)。そういう教養の程度のたいへんな違いは薩摩や長州にはなかった。

木村 知的エリートは、たしかに江戸にいたわけです。そういう人たちは都会化され、野蛮性を失っていたからこそ、逆に力にならない。こうすればこうなる、ああすればああなる、ということがみんなわかっていると指導力を発揮できず、結果として何にもできないわけですよ。

歴史はいつもそうですよ。都市文明が進むと女性化して蛮族にやられてしまう。ローマが都市文明化するとまったく無知蒙昧なしかし男性的なゲルマン人にやられるわけですよ。そのゲルマンの中でさらに田舎のイギリスが近代になって大陸を押えつける。さらにイギリスの中の野蛮な連中がアメリカへ渡って、これがカンカラで豆かなんか煮て食って、頑張った。そして二十世紀初めからヨーロッパを押えるようになった。もちろんこの「辺境理論」で歴史のすべてが理解できるわけではありません。しかし、明治維新も、その一つの典型的な例のように思えるわけです。

丸谷 海音寺さんはもっぱら明治政府の道義心の欠如を嘆くわけですよ。もし吉田松陰が生きていれば違ったろうともいっている。でも、吉田松陰なんて人は、要するに一種の奇人にすぎないわけでしょう。奇矯な校長先生でしょう(笑)。そんな人がいたところで、政治の実態とは関係ないのに。ところがそういう存在が政治の実態と関係があると思いたいのが海音寺さんの立場であって、それが『西郷隆盛』という本のいちばん大事な部分だという気がするんですよ。

ところがぼくにいわせると、明治政府でいちばん具合が悪かったのは倫理がなかったことではなくて、倫理を生み出す母体というべき基盤がなかったということです。これは下層武士たちが東京にきて、すぐに偉くなって威張った結果です。そのせいで、日本には上流階級というものが非常に貧しい形でしかできなかったわけですね。いつか吉田健一さんがぼくにいったことがあるんです。「三島由紀夫って子ねえ、あれは、とてもいい子だったが、一つだけたいへんな思い違いをしていた。あの子は日本に上流社会っていうものがあると思っていたんだよ」(笑)。これは痛烈きわまりない三島由紀夫批判であると同時に、近代日本史全体への批判ですね。吉田さんの考え方でいけば、教養がなくて、趣味が悪い上流階級というものは意味がないわけですよ。そして上流階級がないから近代日本文明は質が低いし、したがって近代日本文学は程度が悪い(笑)。

(次ページに続く)
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