読書日記
もっとも影響を受けた「運命の一冊」
運命の一冊
詩人の散文を好んで読む。何せ詩人、言葉のセンスに優れていて、独特の滋味がある。谷川俊太郎の散文集を読み返した。タイトルは文字通り『散文』。読書についての指摘が面白い。
二宮尊徳の銅像を「薪運びをしながらも読書にはげんだ」と称える。なぜ「本を読みながらも、薪運びにはげんだ」ではないのか。本を読むこと自体にさしたる意味はない。そこから何かをつかみ取り、それを実際の生活の中で生かすことにこそ読書の意義がある。読書家ではなく実践家だったことに尊徳の偉さがある――。
まったくその通り。読書は手段の目的化を起こしやすい。月に何冊読んだとか、挙句の果てには速読術だの「フォトリーディング」だの、そういうことを言う人には近づきたくない。
谷川は言う。読み過ぎるよりも、読み足らぬほうがいい。本当に意味のある本など、一生のうちに数冊しかない。
これもまたその通りだと思う。しかし、一生に数冊しかないからこそ、数多く読まなければ「運命の一冊」との出会いには至らない。
散々読んできた中で、自分にとっての「運命の一冊」は何か。もっとも影響を受けた本を一冊挙げろと言われたら、迷わず高峰秀子の『わたしの渡世日記』を選ぶ。
高峰秀子といってもピンとこない若い世代の読者もいるかもしれない。念のため説明しておく。
女優。1924年生まれ。5歳でデビューし、天才子役として活躍。戦前は売れっ子アイドルとして数多くの映画に主演。戦後はありとあらゆる役の本質を掴んで演じきる実力派として全盛期の日本映画界の頂点に立つ。
木下惠介監督の『二十四の瞳』、成瀬巳喜男監督の『浮雲』など歴史に残る名作を連発し、55歳で女優業から退いた。
2014年の『キネマ旬報』の「オールタイム・ベスト日本映画女優」で第1位、'00年に同誌が発表した「20世紀の映画スター」でも読者選出の女優部門第1位。ようするに日本映画界最高にして最大の名女優。当時が映画全盛期だったことを考えると、高峰以上の女優はもう二度と現れないと言ってよい。
その後86歳で死去するまで随筆で活躍し、名文家として名をはせた。数々の名著がある中で、1976年に出版された半生記『わたしの渡世日記』は高峰の代表作である。
高峰は不幸を背負って生きた人だった。量的に不幸な人は大勢いるが、彼女の不幸は質が違う。物心ついて以来ずっとスターだった高峰は、小学校教育すらまともに受けていない。嫌で嫌で仕方がなかった女優業を続けざるを得なかった。一族郎党十数人を5歳の時からただ一人で養わなければならなかったからだ。
4歳で母を結核で亡くした高峰は養母に引き取られる。これがまことにすさまじい人で、高峰を徹底的に「金銭製造機」として扱った。近づく者をことごとく排除し、行動のすべてを監視し、ひたすらカネを搾り取る。
上下巻約800ページの本書は、これ以上ない不幸の中で、だれにも頼らず独力で人生を切り拓いていった軌跡を細やかなエピソードで綴る。波乱万丈の人生はまさに「渡世」としか言いようがない。
軽佻浮薄、冷酷無残な映画界。周囲を怜悧に観察し、独力で考え、判断し、行動する。この基本動作を繰り返し、素手で自らの価値観を練り上げていく。一言で言って「哲学書」である。最上の「教養書」といってもよい。
本書は脚本家、松山善三との結婚で終わる。後に養女となった斎藤明美の『高峰秀子の捨てられない荷物』は高峰の後半生の日々を瑞々しく描く。
映画から退いた高峰は、いよいよ独自の原理原則を研ぎ澄まし、それに忠実な日常を重ねていく。動じない。求めない。振り返らない。変わらない。甘えず静かにおおらかに。究極の自律と自立。
高峰の最高傑作は『二十四の瞳』でも『浮雲』でもない。高峰秀子という存在そのものであり、その人生だった。自らの手の内にある哲学によって細部まで完成された生活。潔く生きるとはどういうことかを身をもって教えてくれる。
もちろん、その特異な資質と経歴からして、高峰秀子という人間にはまったく再現性がない。具体的なレベルで、彼女と同じ生き方をできる人はまずいない。
高峰の自己抑制と自己規律は尋常でない。自分に厳しく、人にも厳しい。「高峰先生を尊敬しています。私も先生のようになりたい」という若手女優に一言、「ああそうかい、50年かかるよ」――。まことにその通り。自分にとりわけ甘い僕は、せいぜい他人にも甘く生きるしかない。それでも、仕事や生活のときどきに、「高峰秀子ならどう考えるだろう、どうするだろう」と自問自答する。
幸いにして、高峰秀子の著書は24冊もある。斎藤が引き継いだ「高峰精神」を今に伝える仕事も数多い。どれをいつどこで読んでも、襟を正される。毎回、新しい発見がある。影響は思考と行動の基底にある基準に及んでいる。まさにディープインパクト。仕事と生活の準拠点。言葉の正確な意味での「師」である。
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