ウィットと軽み、原点を見つめる
谷川俊太郎の新詩集。タイトルはずばり『詩に就いて』だ。六十年以上詩を書き続けてきた著者が、八十代のいま、改めて投げかける問い。それがこの詩集だ。どの詩も言葉の立ち姿がくっきりとしていて、驚くほど軽やかだ。軽やかだけれど、重さがないという意味ではない。一編ごとに、抱えられている出来事、対峙(たいじ)する問題があって、言葉はそこに書かれていることの中心へ向かってぐっと引きしめられていく。
たとえば「待つ」という詩の最初の二行。
詩が言葉に紛れてしまった/言葉の群衆をかき分けて詩を探すあるいは「脱ぐ」という詩にはこんな二行がある。
脱ぎ捨てられた言葉をかき集めて/詩が思いがけないあなたになるさらっと読めそうでそうはいかない言葉に出会い、行ったり来たりする時間も楽しい。
詩のなかで観察する目が動く。その動きをなぞり、追うとき、すうっと詩の影が立ち上がる。たとえば「詩よ」の一連目。
言葉の餌を奪い合った揚げ句に/檻(おり)の中で詩が共食いしている/まばらな木立の奥で野生の詩は/じっと身をひそめている
また「木と詩」という一編では次の言葉に立ち止まる。
木は木という言葉に近づこうなどとは思っていないが、詩は詩という言葉に近づこうとして日夜研鑽(けんさん)に励んでいる、のは私に限ら ない。
この詩集を読みながら何度笑ってしまったかわからない。ウィットがある。この軽みの境地は、読者を楽しませるものだ。詩とはなにかを見直し、考え直しながら、人を楽しませる。同時に、未知の場へ連れていく。現状において著者でなければとれない方法が実現されていると思う。
詩についての詩、つまり詩を対象とする詩作品を書くことを、著者は「あとがき」でこう語る。
本来は散文で論じるべきことを詩で書くのは、詩が散文では論じきれない部分をもつことに、うすうす気づいていたからだろう。
詩集の冒頭の一編「隙間」は、詩と散文を並べて、ながめる。
チェーホフの短編集が/テラスの白木の卓上に載っている/そこになにやらうっすら漂っているもの/どうやら詩の靄(もや)らしい/妙な 話だ/チェーホフは散文を書いているのに
「あとがき」では詩作品(ポエム)と詩情(ポエジー)との違いが強調される。言葉で詩を書くとは、詩作品を書くということ。散文との違いはどうか。著者の目は、この詩集で改めてその原点へ向けられている。初めての書き下ろし詩集。その初々しさ、脱皮し続ける力。毒と愛嬌(あいきょう)、瞬発力。触れれば心が動き出す。