コラム

「知性の夏」に、ぼくは澁澤を読んだ

  • 2017/07/08

60年代知性論への俄かな光

むろん当時のぼくはそんなことを知るはずもなかったわけだ。ぼくが大学に入ったのは昭和43年、というから1968年のことになるが、おそらく20世紀文化を考える上で、と言うよりもっと大袈裟に近代文化全体の消長を考える上で、かなり決定的な瞬間が海のこちらとあちらとを問わず地すべりのように起こりつつあったのが、まさにその頃だった。いろいろな人がそう書いている。

あの頃から30年もたち、自らの身をもって生き、わが青春と呼んで恥じることのないその白熱した「知性の夏」の瞬間を、いろいろな経緯をへて自分の学問のテーマのひとつにさえしようとしている今、ぼくにはそのことが実によく分かる。60年代末、何を大袈裟なという周囲の失笑を買っているその5、6年間のことを、ぼくは時にはフーコー、時にはバフチーン、時にはロザリー・コーリー、時には山口昌男の仕事に対するオマージュを通して繰り返し巻き返し描いてきた。だがそれらすべてをぼくにもたらしたそもそもの契機は、異端の文化史家G・R・ホッケの二冊のマニエリスム論の種村季弘訳であり、そのホッケの邦訳のきっかけをつくったらしい澁澤龍彦であり、その澁澤その人の『夢の宇宙誌』だった。

夢の宇宙誌 〔新装版〕  / 澁澤 龍彦
夢の宇宙誌 〔新装版〕
  • 著者:澁澤 龍彦
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:文庫(312ページ)
  • 発売日:2006-06-03
  • ISBN-10:4309408001
  • ISBN-13:978-4309408002
内容紹介:
自動人形、遊戯機械、ホムンクルス、怪物、アンドロギュヌス、天使、そして世界の終わり…多様なイメージに通底する人間の変身願望や全体性回復への意志、大宇宙と照応する小宇宙創造への情熱などを考察したエッセイ集。著者の六〇年代を代表する一冊。読者を異次元に誘い出す夢のアルバム。

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正統を詐称していたものがぐらりと揺れて、人が異端と呼び異物と呼びならわすものが姿を見せる。それをどういうふうに見、それぞれの経験の中にどう取りこむかという、当世流に言うところの「見慣れぬ知」の形式が渇望されていた。フーコー、デリダ、クリステヴァ、セール……いわゆる「現代思想」の異端児たちの出発地点が、澁澤、種村の出発地点と同じ頃というのは多分偶然ではない。ぼくは、必要ならばあらゆる学問の枠や境界を無碍に越え、観念連想のエロティシズムを楽しむような知性のあり方を、フーコーやロザリー・コーリー、『道化と笏杖(しゃくじょう)』のウィリアム・ウィルフォード、『本の神話学』の山口昌男などに即(つ)いて、これを60年代末型知性と呼んで、これがいかなる状況によって生みだされてきたものか、歴史的に見てもいかに稀有、いかに豊饒な可能性を持っていたものか、これからしばらく少々本腰をすえて書いてみようと思っているのだが、考えてみれば、ぼくがその処女作を文献書誌の編年を無視し敢えて『夢の宇宙誌』(1964)と見る澁澤龍彦、同様に(その翻訳の創造性からして)その処女作が『迷宮としての世界』であるのに相違ない種村季弘(するとこれは1966)より以上に60年代末型の名に値する知性というのは他にちょっとないわけではないか。書きあぐねている60年代知性論に俄かに光がさしてきた気がするのだ。フーコーを「学」の世界のこととし、一方澁澤を「趣味」の領域のこととして体(てい)よく分けてしまうような感性のあり方そのものがフーコーや澁澤によってひとしく衝(つ)かれたのが、まさにこの60年代末というエポックであったのだから、澁澤、種村がコーリーやデリダ、フーコーやバフチーンと何くわぬ顔をして並びあっているような夢のオマージュが60年代末についてぜひ書かれなければならないと思っている。

迷宮としての世界―マニエリスム美術  / グスタフ・ルネ・ホッケ
迷宮としての世界―マニエリスム美術
  • 著者:グスタフ・ルネ・ホッケ
  • 翻訳:種村 季弘,矢川 澄子
  • 出版社:美術出版社
  • 装丁:-(442ページ)
  • 発売日:1981-07-00

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日本異端文学とか日本幻想文学の系譜ということで、それこそ秋成、馬琴あたりから始めて澁澤、種村でまとまる一巻を書いてみる夢が、ぼくら「知性の夏」を澁澤、種村の厖大な仕事の影響下におくった一世代には多分ひとしくある。荒俣宏氏とは時々そんなことで話をするし、堀切直人、須永朝彦氏あたりが適任の人だろう。それはそうなのだが、ぼくとしては澁澤、種村の名を「幻想文学」マニア内部の符丁なんかにしておくのはどう考えても勿体ないのである。そんなのは、「周辺」にいたとかいないとか言っていばっている人たちが、上手にやってくれればいい話だ。

たとえばバーバラ・バブコックという象徴人類学の才女が編んだ『さかさまの世界』という本が抄訳されて、ひとしきり話題になったが、もはやそのリファレンス系と言うのか、拠って立つ基盤の無効であることがあちこちではっきりしてきた一世界をどうやって「さかさま」にし、そうした世界が無理無体に見えなくしてきた闇の世界をどうやって日に見えるものにするのかという「否定」の知的技術が、いかに世界的に同時多発的に、くだんの60年代末に人々の関心をかきたてていたものかが、この本などを見ていると実によく分かる。ウンべルト・エーコしかり、ケネス・バークしかり、スーザン・ゾンタークしかり……とバブコック女史の見取り図はどんどん「学」の方へと目が移っていくのだが、さてこのチャートの中で日本はと考えてみると、どう考えてみても山口昌男しか出てこない。そんなはずが、と思って右(事務局注:この記事では「上」)のようにいろいろ考え詰めてみると、澁澤龍彦がぬっと立ち現われる。たとえば山口氏の名を一挙に高からしめたのは多分、『未開と文明』の総括論文「失なわれた世界の復権」であろう(1968)。世界が一枚岩的(モノリシック)に一元化されてしまう以前の「多元的現実」の、「相反物の一致」を介しての復権を言うこの力作論文は、大方の「大人」たちの失笑にもかかわらず、ぼくらにはビンビンとそのメッセージを伝え得た。決して易しいものとは言えないその論旨がまるで面白い漫画本か何かのようにヴィジュアリーに、よく分かった。それは片方に『夢の宇宙誌』があったからである。『夢の宇宙誌』は「玩具について」で、一枚岩的(モノリシック)な現実の背後にあるもうひとつの現実に耽溺する知性の到来を告げ、「天使について」「アンドロギュノスについて」で、「相反物の一致」を夢みる60年代末の夢想をはっきりと予告していた。

68年に上京してきて、いきなり大学紛争で授業がなくなってしまい、いわば自らの知のかたちを自ら形成せざるを得なくなった贅沢な不安のなか、ぼくらは狂おしく濫読を重ねていったが、そのなかで澁澤に出会い、すると彼がぼくらの導者となっていった。ぼくが高知でのほほんとした中学生だった時分に出ていた『夢の宇宙誌』。それまでその本を知らずにいたことを悔いたが、それをぼくが読んだ年こそその初出の年なのだと言って恬(てん)として恥じぬまでに、熟読しさった。『迷宮としての世界』と『夢の宇宙誌』、ぼくはそのさわりを今でも自由にそらんじることができる。

【このコラムが収録されている書籍】
ブック・カーニヴァル / 高山 宏
ブック・カーニヴァル
  • 著者:高山 宏
  • 出版社:自由國民社
  • 装丁:単行本(1198ページ)
  • 発売日:1995-06-00
  • ISBN-10:4426678005
  • ISBN-13:978-4426678005
内容紹介:
とにかく誰かの本を読み、書評を書き続け、それがさらに新たなる本や人との出会いを生む…。「字」と「知」のばけもの、タカヤマが贈る前代未聞、厖大無比の書評集。荒俣宏、安原顕ら101名の寄稿も収載した、「叡知」論集。

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