書評
『澁澤龍彦考』(河出書房新社)
物理人間の系譜
この本の冒頭に出てくる澁澤龍彦は、漫画の鉄腕アトムかタンクタンクロー、あるいは人形劇「パンチとジュディー」のいささか凶暴性のあるパンチみたいに、たえずいきなり唐突な挙動に出る。「私がなにかいうたびに、彼は『そうだ!』とか、『そうかな!』とか叫んで、腕をふりまわすのである。話が早い。突発的に反応があり、一閃にして結論が出てしまう」。著者の初対面の印象だという。思わず膝を打った。かねがね私も、この人はピノキオみたいな人間じゃないかと考えていた矢先なのである。そういえば著者の巖谷國士氏にもそんなところがないでもない。「そうだ!」とか「そうかな!」とか、かならずエクスクラメーション・マークつきで腕をふりまわしたり、とび上がったりする、ビックリ坊やみたいなところがないでもないという意味である。したがってこの本もまた「話が早」く、「突発的に反応があり、一閃にして結論が出てしまう」。そのデンでかりに話を早くしてしまえば、澁澤龍彦、巖谷國士、『澁澤龍彦考』の三者にはともに三位一体的にもやもやした心理がなく、明快かつ唐突に作動する物理だけがある、ということになる。といったところで、人間関係にがんじがらめにされた並みの大人に心理がないということはないから、物理しかない人間というのは、心理をまだ必要としない子供、もしくは幼時固着者のことだという心理学の介入する余地がないこともない。しかし、あらゆる心理的なもやもやを即座に精神の物理に還元してしまう、強力な還元装置をそなえた思考は、そんなシニカルな心理学をさえたちまちはぐらかして物理としての人間の晴朗な現存を提示してみせる。
もちろん物理人間澁澤龍彦にも、初めから終わりまで心理らしいものが皆無だったわけではない。ときには青年期的なロマンティシズムにかぶれたふりも、密室の美少年の演技も引きうけないこともなかった。しかし大方は読者の側のナルシシズムに出たそれらの注文を受けとめたのは、無類のサーヴィス精神とでもいうべきものの発露であって、本体はいずれ手垢にまみれたその種のらしさについて固着することがない。というより、旅の途上に出会う、そんな怪物や天使と化した個としての自己を次つぎに脱ぎ捨てはぐらかして、なにかであることを嫌ってたえず変容する精神の旅行者としての澁澤龍彦の肖像が、ここで正面切って、風俗や文学的先入見のつもりつもった垢から洗い直されるのである。なんならこれは、もう一人の澁澤龍彦によって書かれた『龍彦親王航海記』といってもいい。肉体はかぎりある生をまっとうするが精神は物理として継受される。私たちが生命を終えても天体の運動はやむことがなく、宇宙はそれ以前にも今もそれ以後も、回転し続けている。その壮麗な精神の天体運動の現場に、私たちは精神の正統の継受者の案内を通じて立ち会う。
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