さて、これまた目下の話題とは何の関係もないが、それからまた数日経って、これも偶然、日本橋のある画廊で詩人の窪田般彌さんにお目に掛った。この人も早大教授のフランス文学者である。窪田さんは最近ジョルジュ・ローデンバッハの『死都ブリュージュ』の新訳を発表され、幸運にも私は一冊を献じられている。そのお礼を申し上げてから、何となく私はこう口走った。
「そういえば、四、五日前、出口さんにお目に掛りました」
何をもって「そういえば」なのか。しかし、この観念連合は説明が可能である。
まず窪田さんが訳されたローデンバッハというベルギー人作家の『死都ブリュージュ』なる小説は、市中いたるところに閑雅な運河をめぐらしたフランドルの古都ブリュージュが舞台である。窪田さんはこのほかに、フランスの世紀末詩人アンリ・ド・レニエの、水都にちなんだ『ヴェネツィア風物誌』と『生きている過去』のような作品の翻訳家であり、詩人としては『烏賊(いか)』という、全篇これ水の豊満な描写に終始した初期詩篇を持っている。
そのことが出口さんとどう結びつくか。先程も引いた出口さんの『天使扼殺者』という小説は、終章がヴェネツィアらしい南国の水都で結ばれている。小説の冒頭は戦後の灼けつくような太陽の下、焼跡のすさまじい不毛の描写にはじまり、酷寒のパリを経て、シャオ・ミンという謎めいた美少女の導きにつれて水の濃厚な匂いの立ちこめる南国で終る。
水の流れがお二方をつなげている。そこで、窪田さんに『死都ブリュージュ』のお礼を申し上げたときに、反射的に『天使扼殺者』の作家の名が思い出されたのだ。
そういうわけで、私が窪田さんの顔を見て、とっさに出口さんのことを思い出したのは、唐突のようでいて一応合理的なのである。ところが、ここから先にまさに青天の霹靂(へきれき)のように説明のしようのない出来事が起った。私が出口さんの名を口に出したとたんに、窪田さんの口から世にも驚くべき言葉が出てきたのである。
「出口さん。ああ、しばらくお会いしていないけど、お元気でしたか。そういえばボクはね、ここだけの話だけれど、出口、種村って名前の学生には、白紙答案でも何でも、単位やっちゃうの。出口、種村ってのは、コンピューターにかけるとどういうわけか続いて出てくんのね。これはいい奴にきまってるから、単位、やる」
読者はどうか、もう一度目をこらして、傍点の箇所(事務局注:太字箇所)を読んで頂きたい。そうか、そうだったのか。私は思わずハタと膝を打った。
潮文化人手帖はひとまずコンピューターでデグチ、タネムラを続けて出し、それからアイウエオ順に整理する段階で、アルバイト学生か印刷工が隣り合わせた欄の肩書をあべこべに読み違えたのだ。手帖の編集者も私も、コンピューターのメカニズムに弱いので、ミスの原因に思い当らなかったのである。
ダンテ風に言えば、「私は宇宙全体に紙片のごとくばらばらに/散っていたものが、その光の奥に愛の力で/一巻の巻物にまとめられているのを見た」(天堂篇第三十三歌)のであった。偶然とばかり思っていたものが、たった一つの光源に照らし出されてみると、緊密な必然の連鎖を構造していたのだ。
世界が一冊の書物であるとすれば、そのなかで起こる出来事は、一見お互いに何の関係もなくばらばらに起っているように見えながら、実は一字一画もゆるがせにせず、結末まで一本の明快な必然の糸につながれているのである。
それならば人生も一つの迷路体験としての読書である。一見何の関係もない出来事の積み重ねが、読み方という赤い糸を発見することで、にわかに緊密に構成された必然の大建造物であることが見えてくる。
私の場合は、コンピューターのデータの読み違えから生じた身に覚えのない肩書誤記のために底なしの迷路に踏み迷うことになり、一橋大学の体育部や自治会の襲撃に戦々競々として怯えたばかりか、学生より過激な教授の襲撃を受けて目を白黒させていたような次第である。しかし、相次いで起こったその後の偶然の出来事をつぶさに体験しているうちに、突然、詩人の啓示に似た一言で、幸いにも、バネ仕掛でびっくり箱の外側に飛び出した道化人形のように暗がりから晴れて白日の下に引き出されたのであった。
肩書の一件はこれで無事落着したが、名前の研究がまだ残っている。名前といえば、原因不明の濡衣を着せられて右往左往しているところをますます五里霧中の迷宮に誘い込むかのような言動を示されたのは、出口さんである。思うに、出口さんの役割はダンテでいえば師傅ウェルギリウスのそれであって、その名の意味するひろびろとした出口とは別に焼ビルの死への出口ではなく、「ここを過ぎて悲しみの市(いち)」に到るための門のようなものだったのだ。それにダンテのように人生の半ばを過ぎたどころか、とうに後半生を一周も二周も回ってしまった私は、『天使扼殺者』の高杉青年のように、ビルの四階からいきなりダイヴィングして結末に達してしまうほど足腰が強くはない。そんなわけであれよあれよと途方に暮れているうちに行き会ったのが、名前からすれば袋小路のように狭い場所を意味しているはずの窪田さんであった。
外延の広い出口から入って袋小路にずり落ちて行く。この構造はほとんどポオのメールシュトレームの渦巻に似ている。ダンテのように身の毛もよだつ恐怖の光景に震憾されもせず、ポオの主人公のようにサスペンシヴな体験も味わわなかったとはいえ、私だってその模型くらいの仮想敵の襲撃や社会的制裁には戦懐して、めくるめく渦巻の淵を覗き込んでは文字通り目を白黒させていたのだ。比例的に器が小さいだけである。
ポオの知性もダンテの意志もさして持ち合わせのない私は、東方神国の君子の常として、たまたまその必要に迫られた「名前と肩書の研究」においても、犬も歩けば棒に当る式に盲滅法あるき回るほかになすすべを知らなかった。私の読書消閑法も思えばこれに似ている。退屈のあまり手当り次第の本に手を出して道草を食いながら、いずれは必然的な結末にたどり着くだろうと高をくくっている楽天気である。それも先にも申し上げたように、足腰に自信がないので、盲滅法の速度も早くはない、遍歴だの、旋回運動だの、というようなものものしい表現にはとても似つかわしくはない。まさに漫遊であって、そろりそうりと参るのである。日の高いうちにぶじ目的地に着けるであろうか。しかしまあ、やってみる外はあるまい。図書館はたしかに長いガウンを飜したいかめしい書誌学者の仕事場には違いないが、同時にちょろちょろと右往し左往する小鼠のまたと得難い運動場でもあるのである。いざ。