書評

『行為と夢』(現代思潮社)

  • 2019/08/29
行為と夢 / 出口 裕弘
行為と夢
  • 著者:出口 裕弘
  • 出版社:現代思潮社
  • 装丁:-(302ページ)

純粋な獣の快楽に没入 非言語の森を渉猟する自画像

ときおり出口裕弘氏は物いわぬ獣に変身して市中の小路大通りを徘徊することがあるらしい。「乗物づくし」という小エッセイのなかには、非語の盲いた森を渉猟するそういう氏の自画像が活写されている。氏は言語の洪水にあきあきすると、東京の街中を、バス、都電、私鉄を乗りついで回る。途中一切言語無用。なんという贅沢な気晴らしであろうか。ロゴスの枷を外された大都会は、それ自体が獣のように乱脈で気まぐれな変容をつぎつぎに重ね、はては一個の汗ばんだ巨大な怪物と化してしまうのだ。

どこか中野重治流の街あるきを思わせるのが、そとも微妙に趣きを異にする。これは、「死・各人の果実」に描かれた李珍宇の肖像とも重なる危険な散策で、この「阿呆のように」ただわけもなく街を流している人間が純粋な獣の快楽に浸入している消息は、ほとんど何気ない無言のうちに絶対的に封印されてあらわれないのである。やがて氏はへとへとに疲れ切って住んでいる郊外の街に辿りつく。獲物を漁って森をさまよってきた野獣、生贄[#底本では「生贅」]に飢えて街を窺っていた大犯罪者さながらだ。

さて、それから「ランボー変幻」のような文章に眼を移すと、この失語者の奇怪な行為が、果せるかな、美の専制に倦じたボードレールの失語症と砂漠商人ランボーの流浪との間の激烈な緊張を母胎とした必然的な探索にほかならない消息が窺われるのであろう。げに、「行為と夢」とは、ともに無記名の、言語によって限定されることを知らない世界である。こうして氏の関心はレリスにおいては夢と闘牛に、バタイユにおいてエロチスムに、シオランにおいては怨恨に、すなわちつねに非言語の頭域をめぐって活躍する。ことの成行上、これは当然である。

エッセイ集の重要部分を占めるバタイユら「社会学研究会」の業績を論じた文章について、私は蒙を啓かれるばかりで評言する資格をまったくもたない。

ただ、前著[#底本では「前者」]「ボードレール」以来、氏が一貫して偉大なる父"ロゴス"の敗北を語ってきたことは間違いないと思う。失語にいたるまで衰弱した言語の敗北のあと、夢にせよ、エロチスムにせよ、行為にせよ、ついに怪物と化した私たち自身のひろがりにほかならない非言語の世界が眼前を覆いつくしたのだとして、しかもそれを記述する眼はつねに言語の偉大な敗北の明晰な認識を経過しているのだ。

それゆえに氏は夢とコリーダの記述者レリスの文体における「典礼美」について語る。ほんとうは私たちが「行為と夢」という偽悪的表現を氏の雄性の発露と見間違えた途端に、氏における男性的なものが隠されてしまったわけだ。そしてそれこそがこの照れた文章家の意図であったのにちがいない。
行為と夢 / 出口 裕弘
行為と夢
  • 著者:出口 裕弘
  • 出版社:現代思潮社
  • 装丁:-(302ページ)

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初出メディア

日本読書新聞(終刊)

日本読書新聞(終刊) 1970年10月12日

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