ティラノサウルスについて古生物学者が「知らないこと」
ティラノサウルス・レックス(Tyrannosaurus rex)を思い浮かべてほしい。あらゆる恐竜を代表するこの動物は映画の中の大スターであり、無数のドキュメンタリー番組に取り上げられ、思いつく限りの一般向け恐竜書籍に例外なく登場する(たいていは表紙を飾る)。きっとあなたの頭の中にはすでにこの驚くべき動物のくっきりした姿が浮かび上がっていることだろうし、多少の知識をお持ちならその詳細についてもいくらか、たとえば体長、体重、体高、歯の本数、最高速度などをご存知かもしれない。とりわけ熱心な方なら噛む力、皮膚のきめ、生息地、好みの獲物の種などについてもご存知だろう。こうした知識のほとんどは、ご想像のように、なんらかの厳密な科学研究と化石データに基づいている。あるいは、ティラノサウルスの最後の1頭がおよそ6500万年前に起きた恐竜の大量絶滅で死に絶えたことを考えれば、少なくとも可能な限り厳密に行われた研究である。何百本もの科学論文がその骨の大きさや形状を記載し、関節の軟骨を復元し、どの筋肉が骨格のどこに付着するかを解明し、化石の皮膚片を識別し、足跡や骨についた噛み痕を調べ、質量の推定値や歩行速度を計算するなどしてきた。私たちはこの動物の姿をごく細部に至るまで組み立てることができるのだ。
それだけでなく、実際には私たちはおそらく恐竜ファンですら知らないだろう驚くべき特徴をいくつか掘り下げて解明することもできる。ティラノサウルスの標本の頭蓋骨の内部を調べて脳の各部がどれほどの大きさだったかを調べることができるし、内耳の構造からどれほどの範囲の周波数を聴き取れたかを推定することができるのだ。これまでに瞳孔の形状、夜行性と昼行性の対比、成長率、個体の性別、腐肉漁りで餌を見つけるために平均してどれほど移動する必要があったかも研究で調べられている。
こうした研究すべてを組み合わせることで、絶滅後にヒトの寿命の100万倍もの時を経た動物についての比類のないイメージが得られるのである。私たちはティラノサウルスについておそらく絶滅した他のいかなる恐竜よりも詳しく理解しているのだが、研究対象となる質の良い骨格は25体ほどしかなく、またこの動物は現在科学的に知られている1500種ほどの恐竜のうちのひとつに過ぎない。
私たちが確かに知っていることについても、そうした事実の多くをティラノサウルスと同時代に生息していた他の種、あるいはティラノサウルスが登場する以前に生息していた種と比較することはできない。確かにこの巨大な肉食動物の移動速度についてかなり確実な推定値がわかっているのは驚くべきことではあるが、同時に、「ティラノサウルスはトリケラトプス(Triceratops)を捕まえることができたのか?」といった疑問に、トリケラトプスがどれくらい速く動けたかがわからないために答えられないのはもどかしいことである。さらに、私たちのTレックスに関する知識にはなおも多くの巨大な空白がある――彼らの体がどんな色だったのか、卵や巣がどのようなものだったのかはわかっていないのだ。また彼らが群れを作って暮らしていたのか、生涯にわたってつがっていたのか、森林を好んだのか、あるいは広々とした環境を好んだのか、冬季に移動する習性があったのかも不明だ。数々の技術的進歩が利用できるようになり、2世紀にわたってデータと理解を更新してきても、なおその知識は現生動物の基本的生態に関する知識にも及ばない。どんな寄生虫や病気に悩まされていたのか、どのようにコミュニケーションを取っていたのか、魚を餌にしたことがあったのか、内臓器官はどのようなものだったか、さらにはとても小さな腕にはどのような用途があったのかなどがわかっていないのである。
私が科学について情報発信や市民との交流を行うたびに、いつも恐竜に関して経験することがある。科学者が確実に理解していることを知って世の中の人々が心底驚く事柄があるとともに、こんなことを解き明かすのはわけないのだろうと彼らが思っていることについて実際には科学者がさっぱりわかっていない事柄があるのだ。古生物学者が実際に知っていることと、古生物学者なら知っているはずと多くの人が思っていることの間にこのような隔たりがあるのは興味深いねじれだ。したがって、本書は突き詰めれば古生物学者が恐竜について知らないことに関するものである。
私たちの知識には大きな空白があるとはいえ、古生物学の研究手法が顕著な進歩を遂げ、恐竜の化石がこれまで以上に発見されていることから、新たなデータが地すべり的に増え、この驚くべき動物に関する私たちの理解は大きく飛躍していくことだろう。現時点で解決できない問題は非常にたくさんあるが、私たちの手中には、そうした問題に遠からず答えを出せそうな興味をそそる手がかりがある。本書の狙いは、私たちが実際に知っていることと、私たちが知らないことの間の隔たりをならすことにあるが、将来的にその空白を埋められる可能性がどれくらいあるかについても検討したい。
目下進行中の研究トレンド、現時点で未記載の標本や発展途上の手法を踏まえれば、恐竜の生態に関する次世代の知識へと至る道筋を描くことは可能である。私たちはこれからも間違いを犯すだろうし、実際にこれまでにもいくつか犯し、いまだ訂正されていないものもあるが、科学的発見が止まることなく続いていくことで、現在の知識は確実に深まっていくことだろう。
主要な知識の空白のいくつかについては見当がつけられるだけのことがわかっており、その空白を埋められそうな化石はすでに存在するが、その途上でエキサイティングな発見があり、なんらかの予想外の結果が得られることだろう。過去2世紀にわたる恐竜研究から判断すればそれだけは確かである。また決して埋められないだろう空白、あるいはおそらくもっと悪いことに、とりあえず埋めることはできるが、推定したその答えが正しいのか確認しようのない空白もある。おそらくこの20年間で恐竜に関して私たちが得た知識は、それ以前の200年で得た知識よりも多いはずであり、今後の10年でさらに多くの進歩を生み出す用意が整っている。本書では、この驚くべき動物の研究で近年生じた進歩と私たちが得た最新知識を取り上げるとともに、このきわめて魅力的な絶滅動物について今後どんなことが解明できそうかについても検討する。
また、本書にはできるだけ最新の情報を盛り込んでいるが、恐竜古生物学の分野が常に進歩を続けており、現在も対立する説に事欠かないことも付け加えておきたい。証拠はじれったいほど不完全であることが多く、このため複数の説がほぼ同じくらい妥当であるというケース、あるいはデータがどちらを裏づけるのかわからないといったケースがあるのだ。本書ではこうした状況でできるだけ公平な立場を取り、なるべく主流の仮説を取り上げるよう努めた(重要性の高い代替説や反論についてもいくつか取り上げている)が、あらゆる観点を網羅することは不可能であり、私の記した内容のいくつかについて強く反対する研究者もいることだろう。この点については目をつぶるとしても、他にも進歩が続いていることから出てくる問題がある。本書の執筆中にも、私は絶えず複数の章や節の内容を最新のものに書き換える必要に迫られたし、また編集者が本書の作業を終えてから読者が本書を読むまでの間にも、私が未解明と記した空白を埋めたり、正しいと主張した仮説を覆したりする論文がひとつやふたつ間違いなく発表されているはずである。これは避けがたいことであり、つまるところ科学が進歩しているということなのだ。私としては最善を尽くしはしたが、研究が続いていく中で、本書にはなおも議論が残り、新たな議論を生み出すことさえあるだろうことにご注意いただきたい。
科学者によく浴びせられる批判に、あたかもそれが悪いことでもあるかのように、「科学者は考えを変えてばかりいる」というものがある。しばしば言い換えられる(そして当人のものと確かめられたことのない)ジョン・メイナード・ケインズの次の言葉がまさに至言だろう。「事実が変われば、私は考えを変える」。この発言の最初の出どころや正確な言い回しがどうであろうと、もちろんこれは取るべき態度として正しいものである。それまでの分析に間違いや問題があると示されれば、あるいは新たなデータが明らかになれば(古生物学では明らかによく見られる現象だ)、証拠の重みが変化することがあるからだ。
恐竜に関する私たちの知識に大きな空白があることを考えれば、重要なテーマについて、さらには結論に関して自信を持っていたはずのテーマについて、裏づける証拠の重みがしばしば変化する(またときには再びもとに戻る)のはほとんど驚くにあたらない。このような状況がもどかしく感じられることもあるが、それは科学として後退しているのではなく、私たちが知識を深めつつあり、前進していることを示す確かな証拠なのだ。
[書き手]デイヴィッド・ホーン(古生物学者)
ロンドン大学クイーン・メアリー校の古生物学者、動物学上級講師。恐竜と翼竜の行動と生態を専門とし、これまでの18種の絶滅爬虫類を命名している。イギリスのガーディアン紙等でブログを執筆しており、専門分野を取り上げたさまざまなTVショーの顧問を務め、定期的に一般講演を行っている。著書多数。